令和2年8月28日(金)  目次へ  前回に戻る

「恥ずかしいということが分かっていながらしかも生き抜いているとは、肝冷斎はすさまじいおとこでぶー」とお褒めくださるぶたとのだ。

今日はこの帝都の闇のどこかで、百年前に軍部や民衆を煽って、見てくれ悪い政党政治を叩き潰したひとたちが、また祝杯を挙げていたりするのでしょうか?

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明の時代のことだそうですが、

有一士人、酔酒跨驢、遇一八座於中衢、不下驢引避。

一士人有り、酒に酔い驢に跨りて、一の八座に中衢に遇うも、驢を下りて引避せず。

「士人」は特殊チャイナ的概念ですが、あの国のいわゆる「読書人」≒支配階級の人たちのこと。「八座」というのは、「トップ八人ぐらい」の意味で、政府の大官を指します。具体的にこのクラス、という定義があるわけではなく、宰相と各省の長官である尚書ぐらいを指すものだそうです。なお、日本では、「定員が八名だった」ということで、「やくらのつかさ」とは太政官の参議を指すという。

読書人階級のおとこが一人、酒に酔ってロバに跨り町なかを移動している際中に、「八座」の大官の車列に出くわしたが、ロバから降りて道の脇に避けることをしなかった。

「こら!」

隷人叱之。

隷人これを叱す。

おつきの者がこいつを叱りつけた。

すると、

「おいこら!」

此士人亦大相叱。

この士人また大いに相叱す。

読書人階級のやつの方も大声で逆に叱りつけた。

車上の大官はそれを聞いて、わざわざそいつを呼び寄せ、

「おまえは何者じゃ」

と問うに、

生員也。

生員なり。

「(科挙試験の受験資格を持つ)生員でござる」

と言う。

大官は言った、

既是生員、当有廉恥。如何酔酒撤撥如此。

既にこれ生員ならば、まさに廉恥あるべし。如何ぞ酒に酔いて撤撥(てっぱつ)かくの如き。

「撤撥」は「跳ね上げる」こと、ここでの使い方は、「はねっかえる」という語感が近いでしょうか。

「(ただの学生ではなく)生員にまでなっているなら、恥ずかしいことぐらいわかっているであろう。どうしてこんな風に、酒に酔って町なかではねっかえっているのじゃ?」

生員は「わははは」と笑って、

公乃無廉恥耳。

公すなわち廉恥無きのみ。

「あなたの方こそ、恥ずかしいことがわかっておられないでしょうに」

我如何無廉恥。

我如何ぞ廉恥無き。

「なんじゃと? どうしてわしが恥ずかしいことがわかっていないなどと言えるのじゃ?」

生員は言った、

若有廉恥、如何做得到尚書。

もし廉恥有れば、如何ぞ做して尚書に到り得ん。

「もし恥ずかしいことがわかっておられたならば、どうやって長官にまで昇り詰めることができなすったか」

・・・このやりとり、

一時喧伝絶倒。

一時、喧伝して絶倒せり。

そのころ、あちこちで言いはやされて、みんな大笑いしたものである。

ところで、わしの知人・杜有道の奥方である厳氏が、科挙に受かって仕官したばかりのその甥っ子に手紙を書いて、

諺云忍辱至三公。卿今可謂辱矣、能忍之、公是卿坐。

諺に云う、「忍辱、三公に至らん」と。卿いま辱なりと謂うべきも、よくこれを忍べば、公これ卿坐ならん。

―――世間でよく言いましょう? 「バカにされてもガマンしていれば、いつか宰相さまにもなれるだろう」と。おまえさまは今、(右も左もわからずに)バカにされてるだろうと思いますよ。でもそこをガマンすれば、あなただって高官の椅子にすわれましょうよ。

と言ってやったそうだ。

此亦無廉恥乃做得尚書之意也。

これもまた廉恥無ければすなわち尚書を得るを做すの意なり。

この奥方のおコトバも、恥ずかしいということがわかっていないなら、長官にまで昇り詰めることができる、という意味である・・・ような気がする。

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明・張萱「疑耀」巻四より。恥ずかしげがあるようではえらくなれません、という、まことに至言ですね。ゲンダイでも自分のことは棚に上げて、恥ずかしげなく批判だけしている人たちがいまちゅるからなあ。コドモだから世間のことよくわからないけど。

 

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