令和2年6月30日(火)  目次へ  前回に戻る

学校が廃止されると来月からもずっと休みになるであろうか。夢のようでもあるが、休みが長いと、子供たちの間の家庭間格差が広がるばかりである。→

http://zenshow.net/2020/06/30/授業時間は短縮できるか、%ef%bc%92/

今年も水無月の尽きる日となりました。むしむしと暑くなってきたので、「水無月の祓」でもして身心の健康を保たねばなりません。

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むかしむかし、紀元前六世紀のころですが、鄭の国には「郷校」(きょうこう)という制度があった。「郷」というのは一万二千五百人を治める行政区画、というのですが、いまの町や村みたいなものでしょうか。こういう郷が五つごとに、一の郷校があって、ここで若者らに立ち居振る舞いを教え、年寄りらは集まって村落のことを議した。

春秋の時代も後の方になると、村落の風気もすさんできたのでありましょうか、

郷校之士、非論執政。

郷校の士、執政を非論す。

郷校に集まってくる自由民たちが、時の政柄を握る重臣らのことを何とかかんとかと批判しはじめた。

そこで、大夫の鬷明(そうめい)が郷校を廃止しようとした。

だが、批判の対象でもある執政の子産は言った。

何以毀為也。夫人朝夕退而遊焉、以議執政之善否。其所善者吾則行之、其所否者吾則改之。若之何其毀也。

何を以て毀(こぼ)つことを為さんや。それ、人、朝夕に退きてここに遊び、以て執政の善否を議す。その善とするところは吾すなわちこれを行い、その否とするところは吾すなわちこれを改む。かくの若ければ、何ぞそれ毀たんや。

「どうして廃止などしようとするのか。ひとびとは朝から働いて、夕方になると仕事を終えてここ(郷校)へ出かけ、そこで執政の重臣らのいいところ悪いところを語り合っているのだ。そこで「これはいいぞ」とされたことはわしはやることにしているし、そこで「これはダメだ」とされたことは、わしは止めて改めることにしている。そのように取り扱えば、どうして廃止しようなどと考えるのか。

我聞忠善以損怨、不聞立威以防怨。防怨猶防水也。大決所犯、傷人心多、吾弗克救也。不如小決使導之。不如吾所聞而薬之。

我は忠善は以て怨みを損すと聞くも、威を立てて以て怨みを防ぐとは聞かず。怨みを防ぐはなお水を防ぐがごときなり。大決の犯すところ、人心を傷むること多く、吾はよく救うあたわず。如かず、小決してこれを導かしむるに。吾が聞くところにしてこれを薬せしめんに如かざらん。

わたしは、真心を持って善を行えば、ひとの怨みを減らすことができる、と聞いたことがあります。しかし、威厳を立てて怨みを防ぎきる、ということは聞いたことがない。怨みを防ぐのは、洪水を防ぐのと同じで、大きく決壊してしまうと、その影響は人民の心理を不安にしてしまい、わしにはそれを戻す手立てが無い。少しづつ決壊させて適切な方向に水を導き、わしがかつて聞いたように、だんだんと治癒させていくしかないのである」

と。

孔子はこれを聞いて、言った。

吾以是観之、人謂子産不仁、吾不信也。

吾ここを以てこれを観るに、人は子産は不仁なりと謂うといえども、われは信ぜざるなり。

「この話からわかることは、世間では鄭の執政であった子産どのは人の心のわからない指導者だ、といわれているが、どうもそうではないようだ、ということじゃなあ」

「不仁ではない」というのは、「冷酷そうに見えるが、結局は民のためになる温かな政治を行った」という意味なのか、「人情がよくわかっていて、その人情を利用した冷酷な判断ができた」という意味なのか、キンダイ的な感覚では前者ですが、おそらく当時的な感覚では後者なんだと思いますが、説教や朝礼のときは前者として使った方がゲンダイのひとの心にはフィットして「うんうん」と頷いてくれると思いますよ。(くっくっく、わしもかなりのマキャベリストよのう。)

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「孔子家語」正論解第四十一より。批判されてもガマンするだけでなく、批判されてありがたいなあ、みたいなキモチにならなければならないのです。為政者のみなさんはこんな目に逢いながらも、われわれのために働いてくれているのだ、怨んだりしてはいけないなあ・・・と思ってみると心の健康にいいかも。

 

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