令和2年4月30日(木)  目次へ  前回に戻る

四月はいろいろあったなあ。

明日はもう休みだっけ。五月だから休みですよね。

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明のひと崔銑董玘とは、同じ年に科挙試験に合格した(これを「同年」といいます)関係にあり、二人とも豪快な性格、お酒好きといった共通点もあって兄弟のように仲が良かった。

ただ、二人を較べると、崔銑の方がはるかに

飲量洪、亡可敵。

飲量洪(おお)く、敵すべきなし。

飲酒の量がすごくて、誰もかなわなかった。

そして、

毎酣輒歌、劉伶能飲幾杯酒、也留名姓在人間。

酣わなるごとにすなわち歌う、「劉伶よく幾杯の酒を飲む、また名姓を留めて人間(じんかん)に在り」と。

酔ってくるといつも、変な歌を歌い出した。

劉伶はいったいどれぐらいの酒が飲めたというのだ?

 それでも人類の歴史にその姓名を遺せているんだからなあ。(わしの方が飲めるはずだ。)

という豪壮な歌であった。(劉伶については昨日の記述を見よ)

ある時、董玘と酒店で一緒に飲んでいたところへ、一人の道士が顔をだした。

道士言う、

能飯。

よく飯をくう。

「わしはいくらでも飯を食えますよ」

「ほほう、ではわしと勝負しよう」

よせばいいのに、崔は「他流試合」を始めた。

毎崔一甌酒、方士一甌飯。

崔の一甌酒するごとに、方士一甌飯をくう。

崔がお酒を一瓶飲むことに、道士の方はメシを一碗食う。

というアリ対猪木のような勝負である。

夜更けまで勝負を続けて、

崔已酔、而飯不止、凡得五十四甌。

崔すでに酔い、しかるに飯止まず、およそ五十四甌を得たり。

崔は酔っぱらってしまったが、道士の飯の方はまだまだ食い続けて、五十四碗ほど食いおったんじゃ!

これが董の唯一の敗北であったという。

ただ、さすがにニンゲンが五十四杯もどんぶりめしを食うことができるはずがないような気もするので、

蓋障眼術也。

けだし障眼術ならん。

おそらく目くらましの術だったのではないか。

道士は五十四杯も食っておらず、幻術を以て食っているように見せかけただけなのではないか、という説もあった。

―――ところが、老齢になって崔と董の二人は絶交してしまった。

董の娘婿に陳約之という男がいて、彼らより三十以上も年下であったが、河南に仕事で出張したとき、すでに引退していた崔を酒席に誘ったのだという。陳も酒量は人並み外れていたから、有名な崔老先生に飲み比べで勝利したら、仲間うちでどれほどの称賛を浴びるかと思うと勝負を挑みたくもなったのであろう。

ただし、

約之雅知量不敵、恃其少壮。値崔病初起。

約之、量の敵せざるを雅知し、その少壮なるを恃む。崔の病みて初起せるに値(あ)えり。

陳自身は、伝え聞く崔の酒量にはさすがに敵わないと思っていたが、しかし相手は老齢であること、また、崔が病み上がりであるという情報があったことから、なんとかなると思ったようである。

二人はそれぞれ立会人を連れて酒店で勝負したのだが、結局、

至夜分、約之大酔、跌宕不能支。

夜分に至るに、約之大いに酔い、跌宕(てつとう)支うるあたわず。

「跌宕」(てつとう)は「うろたえ倒れるようす」。「ふらふら」「ぐでんぐでん」である。

夜中になったころ、陳の方はたいへん酔っ払ってしまい、ぐでんぐでんになって、座っていることもできないほどであった。

崔は立会人に言った、

彼且乗我瑕而闘我耶。

彼、まさに我の瑕に乗じて我と闘わんとせしや。

「こいつは、わしの体調が万全でないのに乗じて戦いを挑んできたんじゃろう?」

そして、

復挙十余白乃別。陳遂病至喀血不起。

また十余白を挙げてすなわち別る。陳遂に病みて喀血起たざるに至れり。

さらに十何杯も、大盃を飲み干す競争をして、やっとお開きになった。陳はその後病臥し、やがて喀血して死んでしまったのである。

董玘は、

「大事なムコをあいつに殺されたんじゃ!」

と激怒して、以来二人の間は険悪なものとなってしまったのであった。

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明・焦g「玉堂叢語」巻七より。どんぶりめし五十四杯はムリですね。崔老先生も無茶苦茶な飲食生活は控えて、少しは自粛していただきたいものである。それにしてもニンゲン関係は難しいなあ、みなさんも年寄りとの勝負は避けて・・・と教訓を考えているうちに、気づきました! 明日もう休みだと思ってまたまた夜更かししてしまったが、明日はもう一日あるんでした! 早く風呂入って寝なければ!

 

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