令和2年4月19日(日)  目次へ  前回に戻る

今日は晴れ。晴れた休日はたいていのドウブツは20パーセントぐらいかしこくなる。

また明日平日か。テレワークしようかなあ。テレをするかどうかではなくワークをするかどうか、が悩ましいのである。

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今日は休みの日なんで、ふだんアタマが弱っているときには読めない本を読んでみます。

前後の事情がよくわからないんで、突然こんなこと↓言い出すように見えるんですが、

道理無奇特、乃人心所固有、天下所共由、豈難知哉。但俗習繆見、不能痛省勇改、則為隔礙耳。

道理に奇特無く、すなわち人心の固(もと)より有するところ、天下の共に由るところ、あに知り難からんや。ただし、俗習・繆見に、痛省し勇改するあたわざれば、隔礙(かくがい)せらるのみ。

「道の理」に不思議なこと特別なことがあろうか。もともと人間の心の中にそれはあるのじゃ、天下のひとみんなが共にそれに依拠しているのじゃ、難しいことがあるはずがない。ただ、日常的な習慣や誤った見解のせいで、自分の問題として痛烈に反省して、勇気をもって改善することができなくなっていると、隔てられ邪魔をされてしまうことがあるだけなのじゃ。

古人所謂一慚之不忍、忍終身慚乎。此乃実事、非戯論也。

古人のいわゆる「一たびの慚の忍ばずして、修身の慚を忍ばんか」なり。これすなわち実事、戯論にあらざるなり。

いにしえの賢者たちが、「今このときに恥ずかしい思いをするから、といって、一生恥ずかしい思いをし続けるのをガマンできようか」と言っ(て、自分の行動を反省して、間違ったことがあればどんどん改善していっ)たのは、まさにこの(時に、おまえさんが真似なければならない)ことなのだ。これは目の前の現実の問題なんじゃ、たわむれの議論をしているんではないんじゃ!

(中略)

古人不求名声、不較勝負、不恃才智、不矜功能。通身純是道義。

古人、名声を求めず、勝負を較べず、才智を恃まず、功能を矜(ほこ)らず。通身純(まった)くこれ道義なり。

ほんと、いにしえの賢者たちは、名声を得ようとしたわけではなく、人と勝ち負けを較べようとしたわけではなく、自分の才能や知恵を恃んだわけではなく、功績や能力を見せつけようとしたわけではない。とにかく、体中がすべて「道の義」で出来ていたんじゃなあ。

(中略)

平日議論、平日行業、皆同児戯、不足復置胸臆。天降之衷、在我久矣。特達自立、誰得而禦。

平日の議論、平日の行業はみな児戯に同じく、また胸臆に置くに足らず。天降の衷は、我に在りて久しきかな。特に達して自立せば、誰か得て禦がんや。

普段の議論や普段の行動・事業なんか、すべて子どもの遊びと同じじゃ。胸のうちにずっと置いておく必要はない。天から配賦されてる真心は、わしらの中にずっと前からあるんじゃ。それ(真心)に何とか到達して、独り立ちすれば、いったい誰が(真心の求めることを)否定できるだろうか。

勉自奮抜、不必他求。来早得暇見過、以観新功。

勉めて自ら奮抜し、必ずしも他求せざれ。来早に暇を得て過ぎらるれば、以て新功を観ん。

がんばって、自分自身で奮い立ってください。外に求めてもどうしようもない。早いうちに時間を作って会いに来て、おまえさんの最近の到達点を見せてほしいものじゃ。

ああ、そうですなあ。

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宋・陸象山「文集」巻十四「与厳泰伯第三書」(厳泰伯に与う、第三書)。下線部はいいコトバですね。

何か具体的な課題があって、それについて質問を寄越した弟子と議論しているんだと思いますが、具体的な課題が今ではわからないので、こんなことばかり言い合っていたのか、ヘンなひとたちだなあ、と思えてしまうと思います。(「中略」の部分はわたしが中略したんではなくて、編纂されたときには略されていたと思われる部分)

宋儒の特徴とかライバルである朱晦庵(朱子)との違いとか説明してもゲンダイのひとびとにあんまり意味はないと思うのですが、切迫した短く切れ切れの文章で、何やらすごく一生懸命やっているらしいのだけはわかっていただけるかも。わたしも若いころは切迫してたので一生懸命こんなの読んでたんです。しかし最近は切迫しなくなってきました。もう少しするとホントに「ああ、そうですなあ」以外言わなくなると思うんじゃ。

 

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