令和2年3月11日(水)  目次へ  前回に戻る

不死鳥フェニックス(想像図)は、一人でエジプトへ行って一人で燃え尽きねばならない。そうすれば大死一番、真の生命に生きることができるであろう・・・かも。

あれから何度目の3月11日でしょうか・・・。またまただんだん追い込まれてきました。今回の人生では、あと何回追い込まれるのであろうか。

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唐の徳山宣鑒禅師は、はじめ金剛経を研究して、「周金剛」(周は禅師の俗姓)と呼ばれるほどの学僧で、プライドもあったんです。

龍潭崇信のもとに至って、最初の面会で、

久嚮龍潭、及乎到来、潭又不見、龍又不現。

久しく龍潭に嚮(むか)うに、到来に及びて、潭もまた見ず、龍もまた見ず。

「長いこと龍潭に来たいと思っておりましたが、やっとやって来たところ、どこに潭(淵)があるのか、どこに龍がおられるのか」(淵の深さ、龍の超越のように、わしに教えることがありますかな)

と不遜な挨拶をした。すると、龍潭和尚は、

子親到龍潭。

子親しく龍潭に到れり。

「おまえさんは、とうとう現実に龍潭に到着しましたなあ」(何を見ているのじゃ、ここには学ぶことばかりじゃろうが)

と鼻で笑ったのである。

「むむむ」

師無語、遂棲止焉。

師、語無く、遂に棲み止まれり。

徳山は何も言えなくなって、結局ここに止まって修行することになった。

こうしてしばらく修行して、師匠に感化され、だんだんいいひとになっていったみたいなんです。

一夕、侍立次、潭曰更深何不下去。

一夕、侍立の次(とき)、潭曰く「更深何ぞ下去せざる」と。

ある晩、そばに控えていたとき、龍潭は言った、「もう夜も遅いぞ。自分の宿舎に引き上げるがよい」

「わかりました」

と徳山は部屋に帰ろうとしたが、外は真っ暗だった。

(考えてみれば、わしの修行もどう進めばいいのかわからん暗闇である)

思いついて、龍潭のところに戻ると、

外面黒。

外面黒し。

「外はもう真っ暗でございます」

と言ってみた。

すると、

潭点紙燭度与師。

潭、紙燭に点じて師に度与す。

龍潭は、紙燭に火をつけて、徳山に手渡そうとした。

師擬接、潭復吹滅。

師、接せんと擬するに、潭、また吹滅す。

徳山が受け取ろうとした瞬間、龍潭は吹き消してしまって、世界はまた暗闇に戻った。

いやがらせです。パワーハラスメントだ。

だが徳山は「ああ」と声にならない声をあげ、

於此大悟、便礼拝。

此れにおいて大悟し、すなわち礼拝せり。

これによって大いなる悟りを開き、ひざまづいて龍潭和尚を礼拝した。

のである。、

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「五灯会元」巻七より。よかったなあ。それ以外無い時にそれ以外無いような方法で教えてもらえたんです。ちなみに今日はオモシロいひとたちと串カツたらふく食った。人生の暗闇には一人で立ち向かうしかない、のではあるが。

 

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