令和2年2月24日(月)  目次へ  前回に戻る

右:絶海中津(1336〜1405) 左:義堂周信(1325〜1388)

せっかく高知まで行ってきたんで関係者のお話を。

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永徳三年(1383)、足利義満さまは、明の皇帝とも面識にある絶海中津を(その外交ブレーンとすべく)、京都鹿苑寺に招聘します、間を取り持ったのは、義満さまの座禅の師であり、ブレーンの一人、義堂周信である。ところが、翌至徳元年(1384)には「意に忤う」ことがあり、絶海は逃れて摂津の銭原に隠れたのであった。

世事従来多変態、 世事は従来、変態多く、

当初早悟有如今。 当初より早悟す、如今あるを。

 世の中の事は昔から変化が多いもの、ですから、

 最初っからこんなふうに(将軍さまと仲たがいして)今の状況になるだろうと悟りきっておりましたよ、拙僧は。

青山高臥茅簷下、 青山に高臥す、茅簷(ぼうえん)の下、

不許白雲知此心。 白雲にもこの心を知るを許さず。

 青い山の中、茅葺屋根の下でキモチよく眠っております。

 自由に空を行く白い雲にさえ、拙僧のこのキモチはわかりますまい。

「銭原にて清溪和尚の韻に和す」という題がついています。夢窗疎石門下の清溪通徹和尚が亡くなったので、生前の清溪の詩の韻を利用して、彼への返事のように作った詩である。「あなたのような方にも、わしの自由な境涯はご理解いただけなかったでしょうな」という意が示されております。

というわけで、絶海は、

(大明帝国の皇帝ともわたりあったわしを、どうお取り扱いになられるつもりかのう、くっくっく)

と余裕しゃくしゃくだった・・・かどうかは知りません。

そこから、細川頼之の世話で阿波でお寺を建ててもらって住職になるのですが、義満さまの方から絶海と関係を修復しようと申し出があった。しかし、

(さて、そうも簡単にはいくますまいよ、くっくっく)

と思ったかどうか知りませんが、絶海は戻って来ない。

そこで、義満さまは、また間に義堂周信を立てた。

義堂から絶海への手紙が遺る。

・・・絶海どのは、阿波の国に逃れたといいながら、新たな寺の住持をしておられるとのこと、

不得脱去田地訟牒、紛擾之中、労心焦思、譬如昆吾宝剣、刺在於泥中、傍観者可不惜哉。

田地訟牒を脱去するを得ず、紛擾の中、心を労し思いを焦らすること、譬えば昆吾(こんご)の宝剣の刺して於泥中に在るが如く、傍観者惜しまざるべけんや。

田地の訴訟状のやり取りから脱け出すことができず、めんどうな争いごとの中で、心を疲れさせ思いを焦らしていることであろう。(おまえさんのような文化人がそんな中で浪費されているのは)たとえていえば、玉や鉄をも切るという伝説の昆吾の国の宝剣が、泥を刺すのに使われているようなもので、はたから見ている者にはもったいなくてしようがない。

「昆吾」(こんご)は多く伝説に語られる地名で、@夏の時代に河北にあったという国、A周代に西域にあった国、あるいはB「山海経」には(どこにあるかはっきりしないが)金や赤玉を産するといい、C「淮南子」には南方にあり、正午に太陽が南中する丘であるという。ただし、名剣を出だすのはAで、「海内十洲記」に、

周穆王時、西胡献上昆吾刀、長一尺、切玉如切泥。

周穆王の時、西胡「昆吾刀」を献上す、長さ一尺、玉を切ること泥を切るが如し。

紀元前10世紀ぐらいの超古代の周の穆王の時代、西方の異民族が「昆吾刀」という刀剣を献上してきた。その長さは一尺ほどであったが、鉱物である玉を、まるで泥を切るかのようにたやすく切ることができたという。

とあります。

最近、相君(大臣閣下、すなわち足利義満さまのこと)とお話するたびに、

必及高明之徳、願欲一面。而又老国師、再領天龍之席。而来慰国師、兼副相君之望、為良策也矣。

必ず高明の徳に及び、一面を欲するを願わる。しかしてまた老国師、再び天龍の席を領す。なんじ来たりて国師を慰め、兼ねて相君の望みに副(そ)わば、良策たらん。

必ずおまえさんの徳の高さを話され、また会いたいものだとおっしゃっておる。それに、春屋妙葩老師が、また天竜寺の住持になられた。おまえさんがこちらに来て、老師を慰問し、あわせて大臣閣下のご希望にも沿うようにすれば、一挙両得の良策であろう。

それに、

況乎小弟、歳暮心孤、虚半榻而俟、来何晩邪。

況や小弟、歳暮れ心孤にして、半榻を虚して俟つに、来たること何ぞ晩(おそ)きや。

このわしじゃ。もう晩年に差し掛かり、孤独な思いの中で、長椅子のそちら側を明けて、おまえさんが座ってくれるのを待っているのに、どうしておまえさんが来るのはこんなにおそくなってしまっているのじゃ!

と書いてあって、なかなか心情の籠ったいい手紙ではありませんか。

「小弟」はもちろん「小さな弟」ですが、義堂は正中二年(1325)の生まれ、建武三年(1336)生まれの絶海より一回り以上年上の郷里の大先輩で、夢窗門下では兄弟弟子とはいえ、絶海は義堂に座禅の手ほどきをしてもらった関係にあります。

「ふふん」

絶海はここまで読んで、

(いつまでわしの顔に泥を塗っているつもりじゃ?)

と言外に言う兄弟子の、怜悧な顔を思い浮かべた。

「義堂和尚は足利どのにべったりよのう・・・」

だが、数えでもう五十になろうという分別盛りでございます、

(誰の顔を立てるか、だけじゃからな。ここは法兄どののお顔を立てた、というのが一番よいか・・・。くっくっく)

と思ってにやにやしたかどうかは知りませんが、至徳三年(1386)三月、絶海は阿波より京に戻り、義満さまのお計らいで等持寺に住持することになるのでございます。ちなみに、応永二年(1395)、足利義満が出家したとき、その剃度(髪を剃って得度させる)の師となったのは、絶海和尚でありました。

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絶海中津「蕉堅藁」義堂周信「空華集」より。くっくっく。五山文学は大人のブンガクなのでございます。「文学」と書くから明治のブンガクとか芥川とか太宰とか、そんなのと誤解してるひとが多いのではないかと心配ですぞ。

 

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