令和元年12月20日(金)  目次へ  前回に戻る

ネズだって、いとこのムササビと同じように役に立つこともあるのではなかろうか。

年末が近づいてきたので、来年の事を考えて絶望してきました。ああもうイヤだイヤだ。

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苦しくなってくると心の平安を求め始めるのが人情というものでございます。

唐の大梅法常禅師は、馬祖同一のところを訪れて、

如何是仏。

如何ぞ、これ仏。

「どういうものなのですか、ブッダというのは」

とすごい直球の質問をしたところ、

即心是仏。

即ち心これ仏。

「その心こそが、ブッダだ」

と答えられて、

師于言下大悟。

師、言下に大悟す。

禅師は、そのコトバのもと、最終的な悟りを得た。

という俊秀であった。たった一言で悟れるなんて、すごいです。

悟りを得た法常は、大梅山という山に一人で隠れ住んでいたのですが、兄弟子の塩官斉安という坊主の弟子(法姪に当たります)が、

采拄杖迷路、到師庵。

拄杖を采りて路に迷い、師庵に到る。

杖をついて(修行の旅に)出ているとき、山道に迷ってしまい、偶然、禅師の庵の前に出た。

弟子の坊主は法常禅師を見かけると、法の上での叔父さんとも知らずに、

和尚住此山多少時。

和尚、この山に住みて多少の時なるや。

「和尚は、この山に棲んでどれぐらいになりますかな」

と問うた。

唯見四山青又黄。

唯見る、四山、青また黄。

「どれぐらいかは知りませんなあ。四方の山が青くなったり黄色く色づいたりするのを何度か見ましたがなあ(年数を問うてなんとする)」

「むむ? おかしな答えをするひとじゃ。もしかして悟っておられる・・・いや、まさか。えーと、

出山路向甚麼処去。

出山の路、甚麼処に向かいて去らん。

この山から下りるには、どちらの方に行けばよろしいのでしょうか?」

随流去。

随流し去れ。

「流れに随って行けばよろしい。(この山から下りるにも、おまえさんの生き方も、自然のままに)」

「むむむ! やっぱり悟ってるぞ!」

この坊主が帰って、「梅山にすごいお方がおられる」と言いふらしたので、次々と弟子が集まって来るようになったという。

中略。

何十年かが経ちました。

師臨示寂時、示衆云、来莫可抑、去莫可追。

師、示寂の時に臨みて、衆に示して云う、「来たるは抑(おさ)うるべきなく、去るは追うべきなし」。

禅師は、臨終の時に、(まわりを囲んでいる)弟子たちに向かっておっしゃった。

A「(今いるのはおまえたちか。)やってくるやつを断るわけにもいかんし、出ていくやつは追いかける必要もないからのう」

B「やってくる死は避けることはいかんし、去っていく生は追いかけるわけにもいかん」

どちらの意味でしょうか。

弟子たちは無言であった。

従容間聞鼯鼠。

従容たる間、鼯鼠(ごそ)を聞く。

ゆったりした時間が過ぎたが、そのとき・・・

キイ―!

どこか遠いところで、ムササビが一声鳴いた。

一瞬、弟子たちの心が動いた!

師云、即此物、非他物。善自護持、吾当逝矣。

師云う、即ち此の物、他物にあらず。善く自ら護持せよ、吾はまさに逝かんとす。

禅師はその時を逃さずに、言った。

「これじゃ。これ以外のものではない。これからはこれを自分で大切に持っているのじゃぞ。わしはそろそろ行きますでな」

と言って死にました。時に唐の開成四年(839)であります。

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「聯灯会要」巻四「明州大梅法常禅師」章より。わしも旅支度するか・・・。

 

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