令和元年10月3日(木)  目次へ  前回に戻る

たとえば右端のタコを青く塗って、足が見えないように半分沈めておけば、みなさん「海ぼーじだ。おれはカシコイから見分けられたのだ」と信じ込んでしまったりするからなあ。

やっと木曜日。体力気力ともに切れた。もう会社なんか行けません。隠棲してすごろくでもします。

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先王之賦頌鐘鼎之銘、皆潘吾之跡、華山之博也。

先王の賦・頌、鐘・鼎の銘は、みな潘吾(はご)の跡、華山の博(はく)なり。

むかしの王さまたちの時代の、文や歌、あるいは青銅の鐘やナベに彫られた銘は、すべて「潘吾の地の足跡」「華山でのすごろく」である。

といわれます。

なんのことであろうか。

教えて差し上げましょう。

戦国の時代、趙の武霊王・主父(しゅほ)(在位前325〜前299)は、

令工施鉤梯而縁潘吾、刻疎人跡其上、広三尺、長五尺。

工をして鉤梯を施して潘吾(はご)に縁らしめ、疎人(そじん)の跡をその上に刻み、広さ三尺、長さ五尺ならしむ。

「鉤梯」(こうてい)は「カギばしご」。はしごの一方に鉤がついていて、持ち運んで引っ掛けることができるもの。「潘吾」(はご)は趙の国にある山の名。「疎人」(そじん)は「普通の人間よりいろんなものがまばら(細かくない)人間」のことで、要するに「巨人」です。また、当時の一尺は22.5センチ。

職人にカギ梯子を作らせて、これを潘吾の山に懸け(登れるようにし)た。そして、山の頂に巨人の足跡を彫った。その幅は67.5センチ、長さは112.5センチであった。

しかして

勒之曰、主父常遊於此。

これに勒(ろく)して曰く、主父常にここに遊ぶ、と。

そこ(足跡)に文字を刻み込んだ。「武霊王・主父、いつもここに来たれり」と。

後世のひとが、

「武霊王さまは巨大な方だったのだ。ここに証拠が遺っているのだから、疑うことはできないなあ。疑うやつは非科学的で、知識人ではないなあ」

と思うようにさせたのである。

これが「潘吾の足跡」というものです。

また、秦の昭王(在位前306〜前251)は、

令工施鉤梯而上華山、以松柏之心為博箭、長八尺、其棊長八寸。

工をして鉤梯を施して華山に上らしめ、松柏の心(しん)を以て博の箭と為し、長さ八尺、その棊(き)は長さ八寸ならしむ。

この「博」(はく)は「バクチ」の「博」です。「バクチ」というと現代日本人的にはサイコロ博奕をイメージしますが、おそらくバックギャモンのようなコマ取りの「すごろく」であろうと思います。「博の箭」はすごろくの得点を数えるための点取り棒、「博の棊」はすごろくのコマ。

職人にカギはしごを作らせて、これを華山に登れるように配置した。そして、山の頂に松や柏の木の(腐敗することのない)芯の部分を削って、すごろくの点取り棒を作らせた。その長さは180センチ。また、すごろくのコマを作らせた。その大きさは18センチであった。

これもたいへん大きいものです。

しかして

勒之曰、昭王嘗与天神博於此矣。

これに勒して曰く、昭王嘗てここに天神と博せり、と。

それ(点取り棒)に文字を刻み込んだ。「昭王、かつてここに天の神とすごろくをせり」と。

これが「華山のすごろく」というものなのであります。

「へー、すごいなあ、秦の昭王さまは大きく、しかも天の神々とも連携をとっていたんだなあ。ここに証拠が遺っているんだから、疑うひとは非科学的だなあ」

と、みなさん思いますよね。

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「韓非子」巻十一「外儲説左上」より。

これらは実は、

挟相為則責望、自爲則事行。

相の為にするを挟めばすなわち責望せられ、自ら為にせば事行わる。

部下というのは自分の利益を図ろうとするものであり、そいつをフに挟んでやらせれば、文句をいうやつも羨望するやつも出てくるものだが、君主が自分でやれば物事は進む。

ということを証明する過去の史実なんです。

韓非先生によれば、この二つのお話は、王さまについての記録はみんなこんなふうにフェイクだったり大げさに盛ったりしてあるんですよ、君主がその気になれば信じられないようなことでも後世に信じさせることができる、ということを明らかにしているものなんだそうです。

勉強になるなあ。みなさんはホントにこういうのに引っかかりやすいからなあ。現代においてはフェイクは君主から来るのではありませんからね。気をつけてくださいよ。うっしっしー。

 

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