令和元年9月28日(土)  目次へ  前回に戻る

さすがは精霊コロポックルだ。生殺与奪の権を持っているようである。

明日はもう日曜日・・・週末も、もうおしまいだー。週末の間に少しでも勉強しておかなければ・・・。

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明王之所操者六。

明王の操るところのものは六なり。

後世では「明王」は「みょうおう」と訓んで、不動明王や愛染明王など、仏教化したヒンズーの「ヴィデヤラージャ」「ヴィデヤラージャニ」(光の王・女王)の訳語として用いられますが、古代では「めいおう」で、「カシコイ王さま」のことです。

賢い指導者が、部下や国民を治めるのに用いる手法には六種類ある。

んだそうです。

すなわち、

生之。 これを生かしむ。(生かしておく)

殺之。 これを殺す。  (殺してしまう) 

富之。 これを富ましむ。(財産・生産手段を与える)  

貧之。 これを貧しくせしむ。(財産・生産手段を奪い取る)  

貴之。 これを貴くす。 (地位を高くしてやる)

賤之。 これを賤しくす。(地位を低くする) 

である。単語カードにでも書いて覚えなければなりませんね。指導者を目指す人は。

此六柄者主之所操也。

この六柄は、主の操るところなり。

この六つのことのコントロールレバーは、君主が操っていなければならない。

一方、

主之所処者四。

主の処るところのものは四なり。

君主がその力を振るうことのできる分野が四分野ある。

すなわち、

一曰文。 一に曰く文。(内政)

二曰武。 二に曰く武。(外征)

三曰威。 三に曰く威。(刑罰と脅威を与えること)

四曰徳。 四に曰く徳。(恩恵を施すこと)

である。

此四位者主之所処也。

この四位は、主の処るところなり。

この四つの分野は、君主が力を振るえるよう、支配していなければならない。

さて、

藉人以其所操、命曰奪柄。

人に藉(か)すに、その操るところを以てするを、命じて「奪柄」と曰う。

他人に、操っていなければならないものを貸し与えるのを「レバーを奪われる」という。

藉人以其所処、命曰失位。

人に藉すにその処るところを以てするを、命じて「失位」と曰う。

他人に、支配していなければならない分野を貸し与えるのを「地位を失う」という。

世の中には、不思議なことに自分の操るべきものも支配すべき分野も失っていながら、自分の命令が聞かれるものだと思っている指導者がいるものである。

奪柄失位而求令之行、不可得也。

柄を奪われ位を失いて、令の行わるを求むるは、得べからざるなり。

コントロールするレバーを奪われ、支配すべき分野を失い、それでも自分の命令を聞かせようなどということは、できないのじゃ!

また、

法不平、令不全、是亦奪柄失位之道也。故有為枉法、有為毀令、此聖君之所以自禁也。

法平らかならず、令全からざるは、これまた柄を奪われ位を失うの道なり。故に為す有りて法を枉げ、為す有りて令を毀(こぼ)つは、これ聖君の自ら禁ずる所以なり。

法が公平でなく、命令の内容が明確でないなら、それもまたコントロールすべきことを奪われ、支配すべき分野を失うことになるであろう。この故に、何かをするために法の規定を枉げたり、何かをするために以前の自分の命令を変更してしまうのは、聖なる君主が絶対に自ら禁ずることなのである。

聖なる君主は

貴不能威、富不能禄、賤不能事、近不能親、美不能淫也。

貴きも威すあたわず、富めるも禄するあたわず、賤しきも事(つか)うるあたわず、近しきも親しむべからず、美なるも淫するあたわざるなり。

どんなに身分の高いひとの権威にも跪くことはなく、どんなに富めるひとから財物をもらっても従うことはなく、どんなに身分の低いひとであっても思い通りに仕えることはできず(本心がわからないから、だと思います)、どんなに近く侍っている者でも親しむことはできず、どんな美しいひとであってもその心を蕩かすことはできない。

君主はたいへんですね。ほかのひとに任せておけないことがたくさんある上に、親しんだり蕩けたりもできないみたいです。

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「管子」任法篇第四十五より。こちらは君主ではないので気楽に読んでいられますが、君主とか経営者とかが読んだら「むむむ!」と考え込んで、すぐに部下AやBを呼び出し、

「昼間任せたことは取り消しじゃ!」

と奪われた柄と失われた位を取り戻そうとすることになるんじゃないですかねー。

この本は実に勉強になります。特にこの「任法篇」は法家思想の一番おおもとを説いて、「至言なり」と評されるとおり、いいこと書いてあるなあ。人の上に立とうというひとは勉強された方がいい、と思いますよー。

 

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