令和元年7月1日(月)  目次へ  前回に戻る

そろそろ怪談の季節です。妖怪「つるべ落とし」。山中などで枝の上から、突然ぶらさがった生首みたいなのが落ちてきて、「びよよーん」と驚かすやつだ。こんなん出たらこわくて死ぬので、山道に行かないなどの優先順位をつけなければならない。

七月になりました。正月休みまであと半年もあるんかー・・・とうだうだしていたら、6月29日に岡本全勝さんに大々的に紹介してもらいましたので、今日は(6月28日みたいな)最低な話ではなく、お高尚なお話をしませんとお全勝さんにお恥をかかせてしまうザマスぞ。

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堂上不糞、則郊草不瞻曠芸。

堂上糞(はら)われずんば、すなわち郊草の曠(ひろ)く芸(くさき)らるるを瞻ず。

「糞」(ふん)は「うんこちゃん」や「汚いもの」を指す字ですが、もともとは上の「米」は「番」の上と同じで「のこめへん」、「米」で表わされる種子を「播(ま)く」意味の文字で、「ハン」という音も示し、下の「異」は「共」が両手(「拱手」の「拱」にその字義が遺っています)、「田」は「ちりとり」の象形ですから、「播かれた種子のようなものをチリとりで集めて掃除する」の意で、この場合は「はらう」と訓じます。その後、「掃除する」対象である「きたないもの」の意味を持つようになったんです。ついでに、「芸」の字は、現代日本では「藝」(ゲイ)の略字として用いています(略字が当用漢字になってしまっているわけですが)、本来は「芸」(ウン)は農耕用語の「くさぎる」です。

ということで、この一文は、

王宮の正堂の中さえ掃除されていないときに、城外の荒れ地の草を(都市国家のひとたちが共同して)刈っているのを見たことがない。

という意味です。何が言いたいのだろう?

次に、

白刃捍乎胸、則目不見流矢。

白刃胸に捍(あた)れば、すなわち目に流矢を見ず。

「捍」(かん)は「ふせぐ」意のほか、「あたる」「ふれる」の意もあります。

白刃が胸に触れる状態では、(それに集中して)矢が飛んで来るのも目に入らない。

これはわかりやすいですね。

抜戟加乎首、則十指不辞断。

抜戟首に加わわれば、すなわち十指も断たるを辞せず。

抜かれた戟(げき)が首に押し付けられた状態(もう一掻きで首が落ちる)では、(それを素手で取り除けようとして)十本の指がぽろぽろと落ちることもいとわない。

これもわかりやすい。最後の抵抗だなあ。

郊外の荒れ地も耕作しなければなりません。矢が飛んで来るのもコワいです。指が落ちるのは痛いです。しかし、王宮や胸や首の方が優先される。

非不以此為務也、疾養緩急之有相先者也。

ここを以て務めと為さざるにあらざるなり、疾養・緩急の相先んずるもの有ればなり。

これ(荒れ地や矢や指)を気にしないわけではないのである。体で何が失われたら困るのか、あとで養生すればいいのか、緩やかでいいもの、早くやらないといけないものなど、優先順位というものがあるからである。

なるほどなあ。

さてさて、

然則凡為天下之要、義為本而信次之。古者禹湯本義務信而天下治、桀紂棄義倍信而天下乱。

然ればすなわちおよそ天下を為(おさ)むるの要は、義本と為し、信これに次ぐ。いにしえは禹・湯、義を本とし信を務めて天下治まり、桀・紂は義を棄て信に倍(そむ)きて天下乱れたり。

そういうわけで、天下をまとめる要点は、道義を行うのが本筋で、信頼を得ることがその次である。むかしむかし、夏の初代・禹王、殷の初代・湯王はいずれも道義を本にして信頼を得ることに努めて天下は治まったではないか。一方、夏の最後の王・桀王、殷の最後の王・紂王は、いずれも道義を棄てて信頼にそむいたので、天下は乱れてしまったのではなかったか。

故爲人上者、必将慎礼義務忠信、然後可。此君人者之大本也。

故に人の上為る者は、必ず礼義を慎み忠信に務め、然る後、可なり。これ人に君たる者の大本なり。

結論です。人を管理指導する立場に立つ者は、必ず社会規範(「礼」)や道義を尊重し、誠実で信頼を得るように努力して、それでやっと合格点なのである。これが、人を支配する者の基本の基本であるのだ。

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「荀子」巻十一「彊国篇」より。なるほど、こうすれば強い国になれるんだということがわかりました。でも人の上に立たない者にはあんまり関係ないですよね。

 

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