平成31年3月15日(金)  目次へ  前回に戻る

「ちゅうちゅう、山吹色のタコ焼きにござります」「さすがはタコ屋、ようわかっておる、ぐっふっふ、でぶー」

あんまり現世にはもう用事無いし、録鬼されちゃおうかなー。

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元の時代には、知識人たちは

九儒、十丐。(人間の身分を十に分けると、九番目が儒者、一番下がコジキ)

と言われるほど落ちぶれてシゴトも無かったのです。(妓女とか行商人がずっと上の身分にいる)

その時代のひとを何人か紹介します。

〇范居中、字・子正、冰壺先生と号す。杭州のひと。

父玉壺、前輩名儒、仮卜術為業、居杭之三元楼前。毎年元夕、必以時事題於燈紙之上、杭人聚観、遠近皆知父子之名。

父玉壺、前輩の名儒にして、卜術を仮りて業と為し、杭の三元楼の前に居る。毎年元夕、必ず時事を以て燈紙の上に題し、杭人聚観して、遠近みな父子の名を知れり。

おやじさんは「玉壺先生」と呼ばれて、一世代前の有名な儒者であった。就職先が無いので、占いのアルバイトをシゴトにして、杭州の三元楼という建物の前に親子で座っていたのである。毎年上元節の夜、(提灯にいろんな文章などを書いて家家に飾るのであるが、)この占い師親子が、その年の予測を提灯に書き出して公表するので、杭州のひとびとはみなそれを見に集まってきていた。それで、范氏の父子の名前は有名であった。

公精神秀異、学問該博、嘗出大言矜肆、以為筆不停思、文不擱筆。

公、精神秀異、学問該博、嘗て大言して矜肆し、以て「筆思いを停めず、文筆を擱(お)かず」と為す。

彼はこころばえは俊秀でひとに異なり、学問は該博であった。かつて「わしは筆をとれば思考がストップすることはない、文を書き出せば筆を止めることはない、ひっひっひ」と大言壮語していた。

エラそうなことを言っていたわけだが、

諸公知其有才、不敢難也。

諸公その才有るを知れば、あえて難ぜず。

うるさ型のひとたちも、彼にそう豪語するだけの才能があることを知っていたから、あえて文句をつけなかった。

というすごい才能があったのです。さらに、

善操琴、能書法。其妹亦有文名、大徳年間、被旨赴都。公亦北行、以才高不見遇、卒於家。

善く琴を操り、書法に能たり。その妹また文名有りて、大徳年間に旨を被りて都に赴く。公もまた北行するも、才高きも遇せられざるを以て、家に卒せり。

琴が得意で、また書道にも秀でていた。彼の妹もまた文名が高く(女性の文人は物珍しいので)、成宗の大徳年間(1297〜1308)に、政府の方のご指示で大都に呼び出された。このとき、彼も妹に引っ付いて北京に行ったのだが、その才能の高さに対して処遇されず、杭州に帰って来て、死んだ。

死んだのです。でも、まあ、このひとは家で死んだのでエラい。

〇施恵、字・君美は、

居呉山城隍廟前、以坐賈為業。

呉山の城隍廟の前に居り、坐賈を以て業と為す。

浙江呉山の城の守り神である城隍の廟の前に店を開いて、商売を営んでいた。

「坐賈」ですから、「行商」と違って移動せずに商売をしていた。

公巨目美髯、好談笑。余嘗至其家、毎承接款、多有高論。

公、巨目美髯にして談笑を好む。余かつてその家に至り、つねに接款を承け、多く高論有り。

彼は目がでかく、ひげが美しく、ひとと明るく語り合うのが好きであった。わたしもよく彼の店に出かけたが、いつもお酒を出してくれて、いろいろとレベルの高い話をしたものだ。

詩酒之暇、惟以塡詞、和曲為事。

詩酒の暇は、ただ塡詞、和曲を以て事と為す。

詩を作り酒を飲むほかは、音楽に合わせた「詞」や「曲」を作ってばかりいた。

その後、死んだ。死んだときにこんな詞を作ってやりました。

〇廖毅、字・弘道

泰定三年(1326)春、わしは友人の周仲彬とともに彼と会った。

時出旧作皆不凡俗、発越新鮮、皆非踏襲。

時に旧作を出だすにみな凡俗ならず、発越新鮮にしてみな踏襲にあらざるなり。

そのとき、それまでに作っていた詩文を見せてもらったが、どれもこれもそこらにあるようなものではなかった。ひとのこころを開かせるような新鮮な詩情にあふれていて、前人の真似をしたものは一つも無かったのだ。

しかしながら、

天暦二年春、抱疾喪於友人江漢卿家、漢卿与黄煥章買棺具殮、召集親来、火葬城外寺中。

天暦二年春、疾を抱きて友人・江漢卿の家に喪われ、漢卿と黄煥章、棺を買いて殮を具え、親来を召集して城外の寺中に火葬せり。

天暦二年(1329)春、病気になって友人の江漢卿の家で死んだ。江漢卿と黄煥章とで棺桶を買ってやり、葬式の準備をして、親友たちを集めて、郊外の寺で火葬に附してやった。

死んだけど、身寄りも無かったんです。また、本来知識人は先祖代々の墓に土葬されるべきものなのですが、元代の知識人はそんな先祖代々の土地から流浪して離れているので、火葬されるしかないんですね。

身寄りが無いので、その遺作など伝わるはずがないのですが、

公能書、善行文、不草卒。題伍王廟壁有折桂令一曲、及有絶句。

公、書を能くし、行文にも善く、草卒ならず。伍王廟の壁に題して、「折桂令」一曲有り、及び絶句有り。

彼は能書家で、また文章を書くのも上手で、いい加減ではなかった。呉県には春秋時代に呉王に忠義を尽くしながら死を賜った伍子胥を祀る廟があったが、そこの壁に「折桂令」の曲と、五言絶句一首を書きつけていた。

その絶句に曰く、

浩浩凌雲志、 浩浩たり 凌雲の志、

巍巍報国心。 巍巍たり 報国の心。

忠魂与潮汐、 忠魂と潮汐は、

万古不消沈。 万古に消沈せず。

 ひろやかな志は、雲をもしのぎ、

 がんこな心で、国に報いようとしていたのだ。

 忠義の魂と海の潮とは、

 何千年経っても消えて無くなることはない。

この詩は危険です。なぜなら、作者は滅んだ南宋国への忠義を暗に誓っているとみられるからです。

・・・でも死んでいるのでいいか。

其感慨激烈、徒憎悵怏。噫、天之生物也、裁成輔相、以左右民、奈何如是之偏戻也。人猶有所憾者、良以此夫。

その感慨激烈にして、徒らに憎み悵怏たり。噫(い)、天の物を生ずるや、裁成輔相して、以て民を左右するに、この偏戻をいかんせんや。人なお憾むところ有る者は、まことにここを以てするか。

このひとの感情はこのように激烈で、ムダな憎しみ、悩み、恨みがあったのだ。ああ、天はひとびとを生まれさせ、いろいろな運命を背負わせて、人間たちをああとかこうとかするわけだが、どうしてこんなに不公平なのだろう。悔しい思いを持っているひとがいるのは、このような不公平のせいなのだ。

ほかにも続々と死んだひとがいます。

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元・鍾嗣成編「録鬼簿」巻上より。「録鬼簿」は、元代の、詞や曲を遺して市井に消えて行った数百人の文人・儒者たちの略歴と作品を記録したもの。死んで「鬼」(幽霊)になったひとの記録簿、という意味の書名です。何種類かあるのですが、これは印刷して公刊された「新編録鬼簿」という本から引用しました。チャイナの知識人たちはほとんどの時代に支配階級を構成し、道徳的優越感をもとに人民を抑圧する不快極まるひとたちですが、元代の知識人たちだけは自分たちが抑圧される側になり、就職先も無く身寄りもないのが多くて、非常に親近感湧きます。

本日、市井を歩いていたら街角の古書屋から「これを買っていかんかね、ぐっふっふ」と声をかけられ「録鬼簿(外四種)」(1978上海古籍出版社)を入手してきたので、また紹介してあげますね。われらが録鬼されないうちに。ぐっふっふ。

 

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