平成31年3月14日(木)  目次へ  前回に戻る

タコや「やる気無しヒトデ」など、その表面を手で撫でればつるつるしていることであろう。なお、底に半ば埋もれているのはイソギンチャクではないようである。

洞穴の中にいると楽だなあ。春になってもずっと眠っていようかなー。

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さて、後漢の時代に、広川王・劉去疾というひとがいました。このひとは、数多くの「墓荒らし」で歴史に名を遺されたひとなんです。

好聚無頼少年、遊猟畢弋無度。国内冢蔵一皆発掘。

好んで無頼少年を聚め、遊猟畢弋すること度無し。国内の冢蔵、一にみな発掘す。

ワルの若者を集めて、キリが無いほど、獣猟に出かけたり投げ網やいぐるみで鳥を捕らえたりの遊びをするのがお好きであった。そして、彼らを率いて、自分の領国内の規模のあるお墓の埋蔵品は、すべて掘り起こしてしまった。

わしの知り合いの爰猛は、その祖父が広川王の中尉(高級士官)だったそうで、この祖父は

病免帰家、説王所発掘冢墓、不可勝数、其奇異者百数焉。

病免して家に帰り、王の発掘せる冢墓を説くこと、数を勝(あ)ぐるべからず、その奇異なるもの、百数あり。

病気になって家に帰ってきたあと、孫たちに広川王が墓荒らしをしたことを数限り無く話をしたそうで、珍しいものだけで百以上もあったようである。

その祖父のお話の思い出の中から、爰猛が

為余説十許事。今記之如左。

余のために十許事を説く。今、記するところ左の如し。

わたしに向かって十幾つの墓について教えてくれた。今なお覚えていることは以下の墓である。

例えば、広川王国は戦国時代の魏の領土を含んでいたので、魏の国王のお墓がたくさんありました。現在の(晋の時代)から約600年ぐらい前の魏の襄王(在位前318〜前296)の墓は、

皆以文石為槨、高八尺許。広狭容四十人。以手捫槨、滑液如新。中有石牀石屏風、婉然周正。

皆文石を以て槨と為し、高さ八尺許(ばか)りなり。広狭は四十人を容る。手を以て槨を捫(な)づれば、滑液新たなるがごとし。中に石牀・石屏風有りて、婉然として周正。

模様のある石を積み上げて、棺の外枠としており、その高さは2メートルぐらい(一尺≒23センチで計算)だが、広さは四十人ものひとが入れるぐらいである。この外枠を手で撫でてみると、石の表面は今積み上げたかと思われるぐらい、液体でつるつるしている。外枠の入り口から入ってみると、石の屍床とそれを隠すための石の塀があり、きちんと真直ぐ揃えて立てられていた。

「婉然」(えんぜん)はしなやかで若々しい様子をいいます。「周正」はきちんと整っている状況。

しかし、どう探しても、

不見棺柩明器蹤跡。

棺柩明器蹤跡を見ず。

あるべき棺桶や供犠用の器は、その置かれていた跡形さえ無かった。

不思議な墓である。

但牀上有玉唾壺一枚、銅剣二枚、金玉雑具皆如新物。

ただ、牀上に玉唾壺一枚、銅剣二枚有り、金玉の雑具みな新物の如し。

石の屍床には、玉でできた唾壺一個、銅剣二振り、そのほか黄金や玉で出来たいろんな道具が置かれていたが、どれもこれも新品のように輝いていた。

「すばらしいのう」

王取服之。

王取りてこれを服す。

王さまはこれらの遺物を取り上げて、いつも自分の身につけていた。

いいなー。

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晋・葛洪(漢・劉歆とも)「西京雑記」より。このほか、屍体がたくさん出てくるのもあって興奮してしまいますが、まだ明日も平日なので、今日のところはここまでとさせていただきます。

 

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