平成30年11月9日(金)  目次へ  前回に戻る

「モグるん」地中から地中へと身を潜めて生きていても、ぽこんと地上に出たらヒヨコの通り道だったりして、踏みつけにされたりする世の中でございます。

業務上の都合終わりました。ただし本体は帰って来たくない、というので、帰ってきたおれ・・・ハ・・・デク・・・ノ方・・・ナノダ・・・。

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まあそれはそれとしまして、西晋の庾ガイ(「豈」に「攵」。以下めんどくさいので「豈」で代用します)、字は子嵩は河南のひとで、東海王・司馬越の軍諮祭酒として活躍したのですが、後に東晋の時代に政権を握り、死後、大尉を贈られた庾亮の叔父に当たる。

あるとき、まだ若かった庾亮が洛陽の叔父・庾豈のところを訪ねた。用事をすませて帰ろうとすると、庾豈は

留之云、諸人当来。尋温元甫、劉王喬、裴叔則倶至、酬酢終日。

これを留めて云う、諸人まさに来たらん、と。尋(つ)いで、温元甫、劉王喬、裴叔則ともに至り、酬酢(しゅうそ)すること終日なり。

庾亮を引き留めて、「まもなくみんなくるだろう」と言った。

しばらくすると、温幾、劉疇、裴楷らがやってきて、一日中いろんなことを語り合った。

庾亮は晩年になっても、

猶憶劉裴之才儁、元甫之清中。

なお劉・裴の才儁、元甫の清中を憶えり。

ずっと、劉疇や裴楷の才能のキレ、温幾のさわやかでバランスのとれた人格を、忘れることができなかった。

そうなのですが、中でも叔父の庾豈は、

家従談談之許。

家従は談談の許(もと)なり。

うちの叔父さんは、議論の中心にいた。

そして、

神気融散、差如得上。

神気融散し、やや上を得るが如し。

精神はとろんとして自由、ほぼてっぺんを得ていたようであった。

と評されておりますように、当時の俊秀たちの中心にいた人物であった。

ときのひとびとも、庾豈を目して、

善於託大、長於自蔵。

大に託するに善く、自ら蔵するに長じたり。

大いなる道にうまく自分を任せており、自らを目立たせないのが得意だ。

と言われていたのでございます。

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「世説新語」第八「賞誉」より。サラリーマンの鏡のようなひとですね。みなさんも真似して自らをうまく隠して生きていってくださーい。

・・・と思ったのですが、これほどの人物でも、永嘉五年(311)、石勒の乱に巻き込まれて殺された。どうやらサラリーマンなんて何をどうやってもコロされるみたいなので、もう好き放題生きていただくのがいいと思いますよー。

 

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