平成30年7月9日(月)  目次へ  前回に戻る

なんと。これだけ頑張ったのに、まだ月曜日が終わっただけであったとは。コドモっぽい楽天主義を裏切られ、人生の厳しさに茫然とするぶたともぐである。

やっと月曜日が終わっただけだ、というのに、かなり消耗しました。一方、豪雨の被害、今日も続報が入ってきました。えらいことですよ。

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雨が降り続けるときもあれば、雨が降らないときもあります。一体どうすればいいのだろう。

雩而雨何也。

雩(う)して雨ふるは何ぞや。

「雩」(う)は雨乞いの祀り。字形をよくよく見ると、雨冠の下に雲らしき二本棒があってそのさらに下から何かの尻尾みたいなのが見えています。これが雨をもたらす獣神(龍)のしっぽらしい。この獣神に祈る儀式が「雩」です。

雨乞いの祀りをすると雨が降ります。これはどういう理由でしょうか。

先生の答え。

無何也。

何も無きなり。

―――何も理由などありませんよ。

なんと。

猶不雩而雨也。

なお雩せずして雨ふるがごときなり。

―――雨乞いの祀りをしなくても雨が降ることがあるでしょう。それと同じですよ。

うーん。そうなのか・・・。

日月食而救之、天旱而雩。卜筮而後決大事、非以爲得求也。以文之也。

日月食してこれを救い、天旱(ひでり)して雩す。卜筮して後大事を決す、以て求むるを得ると為すにあらざるなり。以てこれを文(かざ)るなり。

―――日食や月食が起こると太鼓を叩いたりして日や月を助けるのだと騒いだり、天候が日照り続きになると雨乞いの祀りをする。あるいは亀の甲羅をあぶったり筮竹を分けたりして占いをし、その結果を見てから大事なことを決断する。こういうのは、これらの行為に何かを導く実効性があるからやっているんではありません。「もったい」をつけているだけなんです。

故君子以爲文、而百姓以爲神。以爲文則吉、以爲神則凶。

故に君子は以て文(かざ)ると為し、百姓は以て神と為す。以て文ると為せばすなわち吉、以て神と為せばすなわち凶ならん。

―――こうして、立派な方々はもったいをつけ、人民どもはそこに超自然的な力が働いているのだ、と信じるわけですね。そこで、「これはもったいつけだな」と認識できればいいことがありましょう。「ああ超自然的な力が働いておられるのじゃ」と思っているようなやつはどんどん転落していくんですよ。

( ‘ω’)/うわーい、完全にイデオロギー暴露されてしまいました。

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こんな考え方をしているのは、近代のひとかなあ、と思うかも知れませんが、なんと、紀元前3世紀のひとなんです。戦国・荀況の「荀子」論天篇十七より。でも古代人がマジメに考えれば、理屈っぽいコドモみたいなもので、すぐにこういう結論に至るのかも知れませんね。

 

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