平成30年2月27日(火)  目次へ  前回に戻る

明日の夜には本州でも春一番、やがて春となってさなぎが蝶になろうというのに、どうしておいらはいつまでもダメなのか。

会社では今日も「どうしておまえはそんなにダメなのだ!」との声聞こえてきた。自信など喪失するほども持っていないので喪失しませんが、ぶた相手にそんなこと言われても困るでぶー。

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宋の王黼というひと、翰林苑に出仕していたときに重病にかかり、

病疫危甚、国医皆束手。

病疫危うきこと甚だしく、国医みな束手す。

危篤状態に陥って、国を代表するような名医たちもみな手を束ねて術の施しようがない、という状況であった。

王黼には二人の愛人がおって、一人を艶娥、いま一人を素娥といったが、この二人が意識不明の王黼の病床に侍していた。

素娥が泣きながら言う、

若内翰不諱、我輩豈忍独生。惟当倶死爾。

もし内翰不諱ならば、我輩あに独り生くるに忍びんや。これまさにともに死すべきのみ。

「もしも翰林さまがお亡くなりになったりしたら、あたしたちだけが生きていくなんてできないわ。いっしょに死ぬしかないと思う」

これに対して、艶娥もまた泣いたが、しばらくして言うに、

人生死有命、固無可奈何。姉宜自寛。

人の生死は命有りてもとよりいかんともすべきこと無し。姉、よろしく自から寛うすべきなり。

「人間の生きる死ぬには定めがあるといいます。こちらの勝手にはできないもの。お姉さま、どうぞそんなに思いつめないでくださいな」

ところが、

黼雖昏卧、実倶聞之。

黼、昏卧せりといえども、実にとこにこれを聞けり。

王黼は意識不明でいたのだが、実はこの会話が聞こえていたらしい。

王黼は危篤状態を何とか乗り切り、病から復帰することができた。快癒の後は順調に出世したが、この間、

素娥専房燕、封至淑人。艶娥遂辞去。

素娥、房燕をもっぱらにし、封じて淑人に至る。艶娥はついに辞去せり。

閨の楽しみを素娥とばかりともにし、正妻として遇して淑人という地位までいただくに至った。一方の艶娥は疎まれて、ついに王黼の家を辞して何処かに去ってしまった。

どうしても素娥にしか愛情を感じなくなっていたのである。

王黼はその後、権臣・蔡京や徽宗皇帝に取り入って宰相にまでなったが、靖康の変の際、金の侵入を招いた六賊の一人として誅殺された。

及黼誅、素娥者驚悖、不三日亦死。

黼の誅さるに及んで、素娥なるものは驚悖し、三日ならずしてまた死せり。

王黼が誅殺されると、素娥は驚き混乱して、三日も経たないうちに死んでしまった。

曩日倶死之言、遂験。

曩日のともに死するの言、ついに験せり。

若いころの「いっしょに死ぬしかない」という発言は、ここに至って実現したのである。

二人の死後、その墓前に月ごとに花を捧げる中年の女があったそうだが、それが艶娥であったのかどうかは定かでない。

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宋・陸放翁「老学庵筆記」巻六より。

王黼は北宋の滅亡をもたらした六人の悪官僚の一人であり、その地位を利用して金品財宝はもとより人の妻女まで掠奪・横領した、というので後世たいへん評判の悪いひとです(真実のところはよくわかりませんが・・・)。しかし自信を持って生きておられたのだろうなあ。エライでぶなあ。

 

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