平成29年11月17日(金)  目次へ  前回に戻る

ついに「無能三昧」(無能による精神の安定)を会得したようである。

やっと週末、金曜日です。ようし、今日は週末にふさわしいお話をしましょう。

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福州の古霊神賛禅師は、名僧・百丈懐海にも教えを受けたひとですが、ある日、経典を読んでいたとき、

有蠅子鑚窗。

蠅子の窗を鑚する有り。

ハエがまどの障子紙に何度もぶつかって、穴を明けたのを見た。

これを見まして、

世界如許広闊、鑚他故紙驢年去。

世界かくの如く広闊なるに、他(か)の故紙を鑚りて驢年去らんか。

「世界というのはこのように広いものであるのに、どうしておれはこの(経典の書かれた)古い紙を穴のあくほど見つめて、ロバのように意味のない人生を過ごしているのだ?」

と気づいたそうなんです。

そして、

空門不肯出、 空門あえて出でず、

投窗也大痴。 窗に投ずるもまた大いに痴。

 空を宗とする仏教寺院から出てしまうことをせず、

 窓の紙に何度もぶつかるのも、やっぱりたいへんなばかものである。

百年鑚故紙、 百年故紙を鑚りて、

何日出頭時。 何れの日にか出頭時あらん。

 百年間もこんな古い紙に穴を明けるようなことをしていて、

 いつになったら向こう側に頭を出せる日が来るだろうか。(来ませんよ。)

と偈を作って、

「やってられませんよ、うっしっしー」

と寺を飛び出し、諸方を行脚して百丈和尚のところに来たんだそうです。

・・・それから悟って、もとの寺に戻って、さらにまた何十年も経ちました。

ある日突然、

告衆云、汝等諸人還識無声三昧么。

衆に告げて云う、「なんじら諸人、また「無声三昧」を識るや」と。

弟子たちに告げて言った。

「おまえたちは(いろいろなことを知っているらしいが)、「沈黙せる精神の安定」というものは知っているのか?」

弟子たちは答えて言う、

不識。

識らず。

「知りませんでちゅよー」

「教えてくだちゃーい」

そこで、禅師は言った、

汝等静聴、莫別思量。

なんじら静聴し、別思量するなかれ。

「それでは、おまえたちは耳を澄まして、余計なことを考えるな」

「わーい、ありがたい三昧を教えてもらえるよー」

と弟子たちはじっと耳を澄ました。

衆皆側聆、師已示寂。

衆みな側聆するに、師すでに示寂(じじゃく)せり。

「示寂」は僧侶が亡くなったことをいいます。

みんなが耳を澄ましてコトバを待っているうちに、なんと、禅師はもう死んでいたのであった。

まさにこれが「無声三昧」(沈黙せる精神の安定)でありまちたー! わーい!

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「聯灯会要」巻七より。週末はこんなことについても、思いをめぐらせていただくとよろしいのではないでしょうか。ぶー。

 

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