平成29年11月13日(月)  目次へ  前回に戻る

「肝冷斎はぶたに変化したでにょろん。われらも何とかしないと「やつら」に見つかってシゴトをさせられるかもにょろんぞよ」「ボクなんかどうでもいいんだ。だからどうでもいいや」と無気力なうつけの少将とアル=イーサである。

自由で暖かなこころを持つニンゲン肝冷斎から、平日になりましたので、冷酷・無個性なぶた肝冷斎に戻りましたでぶー。

本日は、冷酷な歴史的事実について、お話申し上げます。でぶ。

・・・・・・・・・・・・・・・

春秋の初めごろ、紀元前686年のことですが、

内蛇与外蛇闘于鄭南門中、内蛇死。

内蛇と外蛇、鄭の南門の中にて闘い、内蛇死す。

鄭公の宮殿の南門で、宮中の中に棲むヘビと外のヘビとが闘い、宮中側のヘビが殺された、という事件があった。

このころの鄭公は子嬰というひとです。

もともと鄭の荘公が四十三年の治世を終えて亡くなったのが、紀元前701年。その荘公の子どもたちの間で跡目争いが起こり、まず太子の(こつ)が立ちますが、宋国の圧力で卿の蔡仲によって異母弟のが立てられ、太子忽は衛国に亡命します。この突がq公ですが、q公の四年(紀元前697)に、公は権力を握った蔡仲を除こうとして失敗し、宋との国境に近い櫟(れき)の邑(都市)に逃亡してしまいましたので、太子忽が呼び戻され、改めて公位に就きました。これが昭公です。しかし昭公は二年後に謀殺され、代わってその別の弟の子亹(しび)が立てられました。ところが翌年、この子亹は斉の襄公と会盟に出かけて、襄公と不仲となり、襄公によって暗殺されてしまいました。そこで蔡仲は紀元前693年、当時陳国に人質として滞在していた公子嬰を呼び戻し、公位に立てたのでした。

さて、冒頭のヘビの戦いから四年後、前682年、長く鄭国の内政を仕切ってきた蔡仲が亡くなりました。

櫟にいたq公は、首都・鄭に近い大陵の町まで進出し、

使人誘劫鄭大夫傅瑕、要以求入。

人をして鄭の大夫・傅瑕(ふ・か)を誘いおびやかして、要して以て入らんことを求む。

ひとを遣わして、首都にいる大臣の傅瑕(甫瑕(ほ・か)ともいう)を脅迫して仲間に引き込み、公として復位することに協力を求めた。

傅瑕は

舎我。我為君殺鄭子而入君。

我を舎(お)け。我、君がために鄭子を殺して君を入れん。

「わたしを罪しないとお約束いただけるなら、わたしはあなたのために今の鄭公を殺して、あなたを復位させましょう」

と言った。

「わかった」

q公与盟。

q公ともに盟す。

q公は傅瑕と誓いを交わした。

そしてついに、紀元前680年、

六月甲子、瑕殺鄭子及其二子、而迎q公。

六月甲子、瑕、鄭子及びその二子を殺し、q公を迎う。

六月のかのえねの日、傅瑕は鄭公の子嬰とその二人の子を殺して、q公を出迎えた。

復位したq公は、

譲其伯父原曰、我亡国外居、伯父無意入我。亦甚矣。

その伯父・原(げん)を譲(せ)めて曰く、「我、亡国して外居するに、伯父我を入るるに意無し。また甚だしいかな」と。

伯父に当たる公子原を責めて、「わたしは亡命して首都の外に長いことおりましたが、伯父上はとうとうわたしを復位させようというおキモチを持ってくださらなかった。あんまりではございませぬか」と言った。

公子原は従容として答えて曰く、

事君無二心、人臣之職也。原知罪矣。

君に事(つか)えて二心無きは、人臣の職なり。原、罪を知る。

「主君に仕えて裏切らない、というのはひとの臣下たるものの勤めでございますぞ。・・・しかしながら、わたしは自分が許されないのもよくわかっております」

そう言って、

遂自殺。

遂に自殺す。

すぐに自殺した。

「そうか」

報告を聴いたq公はしばらく瞑目したが、今度は傅瑕を呼び出し、

子之事君、有二心矣。

子の君に事うる、二心有り。

「あなたは主君を裏切ったのだ。ひとの臣下として許されるべきことではない」

と指摘して、

遂誅之。

遂にこれを誅す。

今度は彼を誅殺した。

殺されんとして傅瑕もまた従容として曰く、

重徳不報、誠然哉。

重徳は報いられずとは、まことに然るかな。

「「あまりにも重大な恩義は、報いられることがない(報いるすべがないため、人間関係が壊れてしまうのだ)」と申しますが、そのとおりでしたなあ」

と。

・・・・・・・・・・・・・・・

「史記」第十二「鄭世家」より。相変らず「見てきたよう」でオモシロいですね。

ところで、冒頭のヘビの争いについて、些細なことのように思われますが、何かの予兆ではないか、と遠い魯の国にまで知られていたようです。やがて鄭の内訌が終わって、当時亡命していたq公が復位したという報告も魯国にもたらされた。これを聞いて、

「そうですか・・・」

魯の荘公が、自らの大夫・申繻(しんじゅ)にため息交じりにこう言った、ということが、魯の史書である「春秋」の左氏伝に伝えられております。

猶有妖乎。

猶(ある)いは妖有りや。

「(六年前のヘビのことは)やはり不可思議な予兆だったんでしょうかね」

申繻答えて曰く、

人之所忌、其気燄以取之。妖由人興也。人無衅焉、妖不自作。人棄常則妖興、故有妖。

人の忌むところ、その気燄(えん)にして以てこれを取り、妖は人に由りて興るなり。人の衅(きん)する無ければ、妖は自から作(おこ)らず。人、常を棄つればすなわち妖興り、故に妖有り。

「ひとの恐れる不可思議なことは、ひとのキモチがだんだんと燃え上がってくると、それを材料にして発生します。不可思議なことは人の心のせいで起こるのです。人の心に隙間が無ければ、不可思議なことが自力で起こることはありません。逆にいえば、そういう形でした不可思議なことはあり得ないのです。心せねばなりません」

と。

「左氏伝」荘公十四年(前680)より。

この「妖は人に由りて興る」というコトバは、後世、あまたの進歩的官僚とか知識人が、民衆の心のよりどころのような小さき神々や妖しい祭りを廃止するときに、必ず嘯く「テーゼ」として使われますが、その語源はここにあるのでございます。

 

次へ