平成29年8月28日(月)  目次へ  前回に戻る

蝉丸さま。蝉丸さまは醍醐の帝の皇子とも、雑色であったとも申しますが、皇子説に立って盲目の故に山中に棄てられたとする謡曲「蝉丸」は、昭和十年代に不敬の謗りを受けて上演が自粛せられていたのだそうなんです。戦後になると盛んに演じられた、という。

つくつく・・・

まいりましたね。まさかおいらのようなセミにまで会社から電話かかってきてシゴトさせようとするとは。ニンゲンの社会はふつうの生物の神経ではやっていけない社会のようでつくつくつく。

本日は予想外の会社出勤で疲れてしまいました。昨日は「大般涅槃経」を引用するようなことを書いてましたが、そんな元気なくなった。きわめて常識的なやつ紹介して寝ますんでつくつく。

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楽之隆、非極音也。食饗之礼、非極味也。

楽の隆んなるは音を極むるにはあらざるなり。食饗の礼は味を極むるにはあらざるなり。

いい音楽というのは、音の最高のところとは違うのである。食事の際のしきたりは、味の最高のところを味わってもらうのではないのである。

この故に、

清廟之瑟、朱弦而疏越、一倡三歎。有遺音者矣。大饗之礼、尚玄酒而俎腥魚、大羹不和、有遺味者矣。

清廟の瑟は朱弦にして疏越、一たび倡(うた)いて三たび歎ず。音を遺す有るものなり。大饗の礼は玄酒を尚びて腥魚を俎し、大羹和せず。味を遺す有るものなり。

すがすがしい廟堂に置かれ、ご先祖の霊祭りのときに奏でられる二十五弦の「おおごと」は、赤い弦を張ってあるけれどあまり細かい音程を出さない。うたびとたちは、これに合わせて一節うたうごとに、三回「ああ」「ああ」「ああ」と歎声を続ける。これは、音を演奏しきらない、ということなのである。

至高の食事会のしきたりでは、ただの水を重んじ、調理していない生の魚を食べ、スープには味付けをしない。これは、味をつけきらない、ということなのである。

なんで音も味も極めないか、といいますと、

非以極口腹耳目之欲也、将以教民平好悪而反人道之正也。

以て口腹耳目の欲を極むるにあらざるなり、まさに以て民をして好悪を平らかならしめ、人道の正しきに反(かえ)らしめんとするなり。

音楽やしきたりは、口や腹や耳や目の感覚的な欲望をいっぱいまで満たさせよう、というためのものではないからである。これらは、それによって、人民たちに好き嫌いをなくさせ、ニンゲンとしての正しい平穏な精神状態に戻らせるためのものなのである。

からなんです。

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「史記」巻二十四・楽書第二より。

ということで、あんまりすばらしい音を聴いてはいけません。セミの声ぐらいで満足しておくことでつくつく。あんまり美味いものを食ってはいけません。本日はむかしの仲間とベルギー料理を食べましたが、それは見かけだけで、ホントのところはおいらたちセミは何も食わないから味のことを気にしなくていいのでおーしん、つくつく!

 

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