平成29年5月23日(火)  目次へ  前回に戻る
「ぶんぶん」とハタラくハチにぶたが訊ねた。「シゴトが好きなんでぶか?」「ほかに生きる意義が見いだせないのでぶん」それを聴いて、ぶたの諦念に満ちた目にも涙がにじんだ。

もう職業生活イヤですわ。ムリですわ。

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むかしむかし。

空石之中有人焉、其名曰及。

空石の中に人有り、その名は及と曰う。

岩の間の空間(洞窟)に住んでいる人がいた。及さんとおっしゃった。

「及」は、本当は「角へん」につくりに「及」と書く字ですが、変換できないので「及」をもって代替します。「阿Qさん」かな、と思いましたが、名前自体にはあんまり意味はないようです。

もともと洞窟ではなく城内に暮らしていたのだが、

其為人也、善射以好思。

その人となりや、善射以て思うを好めり。

その人柄は、弓射が得意で、特に集中力を高めるのが好きであった。

そして、弓射の練習をしているうちに、

耳目之欲接則敗其思、蚊虻之声聞則挫其精。

耳目の欲接すればその思を敗り、蚊虻(ぶんぼう)の声聞こゆればその精を挫く。

耳や目の欲望を満たす、美しい音楽や愛すべき異性などが近くにいると集中が破れること、蚊とかアブのぶんぶんいう音が聞こえると、精神の統一がうまくいかないことに気づいた。

―――なるほどなあ。

と考えて、

是以闢耳目之欲、而遠蚊虻之声。

ここを以て耳目の欲を闢(さ)け、蚊虻の声を遠ざく。

その結果、耳や目を喜ばせる音楽や異性から離れ、蚊やアブの音から遠ざかることにした。

城内を出ることにしたが、森林や湿原では蚊やアブがぶんぶんいっているので、乾燥した岩場の洞窟に住むことにしたのである。

そうしましたところ、

間居静思則通。

間居し静思するにすなわち通じたり。

何も見聞きせず、静かに精神を集中することができて、ついに弓射の神髄に通じることができた。

のだそうでございます。

さて、弓射の術ではなく、

思仁若是、可謂微乎。

仁を思うこと是くのごとくんば、微なりと謂うべきか。

仁の徳のことにこのように集中するひとは、滅多にいないというべきだろう。

それに近いひとといえば、

孟子恐敗而出妻、可謂能自彊矣。有子悪臥而焠掌、可謂能自忍。

孟子の敗を恐れて妻を出だすは、よく自彊なりと謂うべきなり。有子の臥を悪(にく)みて掌を焠(や)くは、よく自忍と謂うべきなり。

孟子が享楽的になってしまうのを恐れて新妻を追い出してしまったというのは、よくぞ自律的に強制できた、というべきだろう。孔子の弟子の有若(ゆうじゃく)が居眠りしないように、勉強中に眠くなるとてのひらを火であぶって眠気を去ったというのは、よくぞ自律的にガマンすることができた、というべきだろう。

「仁徳バカ一代」みたいな行為ですね。前者は喜んでやるやつがいるかも知れませんが、後者はツラい。どちらもたいへんな行為にはちがいないが、しかしながら、この二つはいずれも、努力をしてそうしているのであって、

未及好也。

いまだ好むに及ばざるなり。

好きでやる、というのには敵わないのである。

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「荀子」巻十五「解蔽篇第二十一」より。

好きでシゴトしているやつはいないと思うが、好きで前向きなやつ、好きで朗らかなやつ、好きで責任感の強いやつ、とかはいると思うので、こんなやつらには敵わん、ということである。

 

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