平成29年3月24日(金)  目次へ  前回に戻る

春になったのでみんな眠いのに起きた・・・のに、モグのやつはまだ寝ているのである。怪しからん・・・と思ったが、今日のマスメディアの動きを見たら、ふて寝でもしていたくなるのも道理である。

コドモだと思ってバカにしているのかも知れませんが、ほんとにアタマ来ることもあるんでちゅぞ。尖閣ビデオ事件以来やなあ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

紀元前、戦国の時代のことでございますが、

屈到嗜芰。

屈到、芰(き)を嗜(この)めり。

楚の王族、屈到は菱の実が好きであった。

死の床にあって、屈到はその宗老(一族出身の家老)に言った。

苟祭我、必以芰。

いやしくも我を祭らんには、必ず芰を以てせよ。

「わしの霊前には、必ず菱の実を捧げてくれ・・・」

と言って亡くなりました。

及祥、宗老将荐芰、屈建命去之。

祥に及んで宗老まさに芰を荐(すす)めんとするも、屈建命じてこれを去らしむ。

葬儀になって、家老は菱の実をお供えにしようとしたが、跡取りの屈建が取り除けさせた。

「しかし、ご先代さまが・・・」

「ダメです」

屈建が言うには、

「いにしえよりの伝統で、そのひとを祀るには、

国君有牛享、大夫有羊饋、士有豚犬之奠、庶人有魚炙之荐。

国君は牛享有り、大夫は羊饋有り、士は豚犬の奠有り、庶人は魚炙の荐(せん)有り。

国の君主であればウシの煮物、重臣であればヒツジの大皿料理、自由民にはブタ・イヌのお供え、一般人民にはあぶった魚の供え物、と決まっている。

そして、

籩豆脯醢、則上下共之。不羞珍異、不陳庶侈。夫子其以私欲奸国之典。

籩豆(へん・とう)の脯醢(ほ・かい)はすなわち上下これを共にす。珍異を羞(すす)めず、庶侈(しょし)を陳(つら)ねざるなり。夫子(ふうし)それ私を以て国の典を奸(おか)すを欲せんや。

「籩」(へん)は竹を編んで作った「たかつき」。いにしえはテーブルやお膳が無いので、座って食事するのに便利なように、高めの食器を用いました。これが「たかつき」。「豆」(とう)は「マメ」に用いるのは借用で、土器の「たかつき」。その食器を横から見た象形が「豆」になっています。「脯」(ほ)は「干もの」、「醢」(かい)は塩漬けにしたもの、「塩辛」。脯や醢を籩や豆に盛り付けます。

竹のたかつき、土器のたかつきに干物や塩辛を盛り付けてお供えするのは、身分の上下に共通している。珍しい変わったものをお供えしたり、多種類のものを多くお供えしたりしてはいけない、というのが決まりごとです(。菱の実を供えるなんて、その決まり事の中には入っておりません)。おやじどのが、自分の都合で、国に代々伝わってきたきまりを破ろうと思ったはずがあるものですか」

臨終のときのコトバは聞き間違いであろう、といって、

遂不用。

遂に用いざるなり。

とうとう菱の実を用いるのは止めさせた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「国語」楚語より。

なるほどなあ、屈建さまというひとは賢いひとでちゅなあ・・・・、とわたしどもが納得しておりますと、

「はい、はい、はい!」

と発言を求めたのが唐・柳宗元さまでございます。

「それは間違っていると思います。

門内之理恩掩義。父子、恩之至也、而芰之荐不為衍義。

門内の理、恩は義を掩う。父子は恩の至りなり、而して芰の荐(せん)は義に衍(たが)うと為さず。

家の中での論理は、恩愛は義理にまさる、ということです。父と子の関係はこの恩愛の一番大事なものですし、菱の実のお供え物がダメだなんて、ほんとに義理に外れたことでしょうか。

そんなことはありますまい。

屈子以礼之末、忍絶其父将死之言、吾未敢賢乎爾也。苟荐其羊饋、而進芰于籩、是固不為非。

屈子、礼の末を以て、その父のまさに死なんとするの言を絶するに忍ぶ、吾いまだあえてなんじを賢とせざるなり。かりにその羊饋を荐(すす)め、しかして芰を籩に進む、これもとより非と為さず。

屈建さまは礼儀の末節を取り上げて、おやじさんの死の床でのコトバを相手にしないで、それで心にわだかまりも無いようなお人柄である。そういう人のことを賢者などといえましょうか(。大した人間ではございません)。屈建が言うように(屈氏は大夫の家柄ですから)ヒツジの大皿を捧げて、その上で竹のたかつきの一つに菱の実も載せてお供えすればいいではありませんか。それでどこがいけないのか」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

唐・柳宗元「非国語」(「国語」を批判する)中「嗜芰」「柳河東集」巻四十五所収)より。

なるほどなあ、柳宗元さまというひとは賢いひとでちゅなあ・・・・、とわたしどもが納得しておりますと、

「はい、はい、はい!」

と今度は宋・蘇軾さまが発言をお求めになりました。

夫死生之変、亦重矣。父子平日之言、可以恩掩義、至於死生至変之際、豈容以私害公乎。

それ、死生の変はまた重きなり。父子平日の言は恩を以て義を掩うべきも、死生至変の際に至りては、あに私を以て公を害するを容れんや。

生と死の間の変化は、やはり重大なことですぞ。父と子の普段の日々のことであれば、「恩愛が義理にまさる」で問題ありませんが、生きると死ぬのぎりぎりの変化の時に当たって、どうして自分の都合で世の中の仕組みを損なってよい、などということがありましょうか。

屈家は大国である楚の名門中の名門、屈到はこのとき正卿(首相)の地位にあったのです。そのようなひとが、

死不在民、而口腹是憂。其陋亦甚矣。

死なんとして民に在らず、而して口腹これ憂う。その陋また甚だしきかな。

死ぬときに、人民のことを心配せず、自分の食い物のことを心配していた、と。こりゃまた甚だしくダメなことではありませんか。

息子の屈建の字は子木といいます。

使子木行之、国人誦之、太史書之、天下後世、不知夫子之賢、而唯陋是聞。子木其忍為此乎。

子木をしてこれを行わしむれば、国人これを誦し、太史これを書し、天下後世は夫子の賢を知らずして、ただ陋をもてこれを聞す。子木それこれを為すを忍びんや。

むすこの屈建が、おやじの言いなりになっていたとすれば、当時の市民たちはみなこのことを囃し立て、主任の史官はこのことを記録し、後世の天下のひとびとは、誰も屈到が賢大夫であったことなど忘れてしまって、ただ「あのダメ遺言の屈到さまか」ということばかりをウワサすることであろう。むすこの屈建が、そんなことになってもいい、と思うだろうか。

是必有大不忍者而奪其情也。

これ、必ず大いに忍びざるもの有りてその情を奪うなり。

ということで、やはり「こんなことにだけはしてはいけない」という強い思いがあって、(おやじの遺言を大切にしてやろうという)人情を捨てたのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

宋・蘇東坡「屈到嗜芰論」「唐宋八大家文」巻二十一所収)より。

なるほどなあ、蘇東坡さまというひとは賢いひとでちゅなあ・・・・、とわたしどもは納得しました。

このように、賢いひとどうしいろんなことを議論していただくのはよいのですが、いかにわれらコドモの如き愚民とはいえ、今日明らかになったようなダブルスタンダードには驚かざるを得ない。マスメディアの態度についても。

 

次へ