平成29年2月9日(木)  目次へ  前回に戻る

揚げ物とか鍋にするのに適切なやつらがいるお。

今日は美味いかつ煮食った。

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やっぱりとんかつは美味いなあ。

六畜其初皆獣也。

六畜はその初め、みな獣なり。

「六畜」は馬・牛・羊・犬・ブタ・ニワトリのことなんだそうです。

六種類の家畜も、もともとはすべてケモノであった。

彼虎豹能搏能噬。而馬亦能蹄、牛亦能触。

彼(か)の虎豹はよく搏(う)ちよく噬む。而して馬もまたよく蹄し、牛もまたよく触す。

(家畜ではない)あのトラやヒョウは、爪でぶん殴ったり、牙で噛んだりする。これに対し、馬もまた蹄で蹴っ飛ばす力があるし、牛もまた角で人を刺すことができるのだ。

とんかつももともと勇猛なイノシシだったんです。

先王知能搏能噬者、不可以人力制、故殺之。殺之不能、駆之而後已。

先王よく搏ちよく噬む者の、人力を以て制するべからざるを知り、故にこれを殺す。これを殺さんとして能わざれば、これを駆りて後に已む。

古代の賢王たちは、ぶん殴ったり噛んだりするものたち(トラやヒョウ)は、ニンゲンの力ではコントロールできないことを認識して、これらはコロすことにしたのだ。コロせないときにも、ニンゲンの世界から追い出してしまったのである。

一方、

蹄者可馭以羈紲、触者可拘以楅衡。故先王不忍棄其材、而廃天下之用。如曰是能蹄、是能触、当与虎豹幷殺而同駆、則是天下無騏驥、終無以服乗耶。

蹄するものは羈紲(きせつ)を以て馭すべく、触するものは楅衡(ひょくこう)を以て拘するべし。故に先王その材を棄て、天下の用を廃するに忍びず。如(も)し「これよく蹄し、これよく触す、まさに虎豹とともに幷せて殺し、同じく駆るべし」と曰わば、すなわちこれ天下に騏驥(きき)無く、ついに以て服乗する無からんか。

蹴っ飛ばすやつ(馬)はおもがいや手綱を使ってコントロールできるし、角突くやつ(牛)は角に横木を付ければコントロールできる。そこで、古代の賢王たちは、馬や牛の能力を棄て、いろんな利用をできなくしてしまうのはダメだと考え(、これらを利用することにし)たのである。

例えば、「こいつは蹴っ飛ばしてくるし、こいつは角突いてくる。虎やヒョウと同じようにコロすなり追放するなりしようではないか」と言っていたら、世界には名馬というものが無くなり、乗るべきドウブツもいなくなってしまうではないか。

そこで、

先王之選才也、自非大奸劇悪、如虎豹之不可以変其搏噬者、未曾不欲制之以術而全其才、以適於用。

先王の才を選ぶや、大奸劇悪にして虎豹の以てその搏ち噬むを変ずべからざるが如きに非ざるよりは、いまだかつてこれを制するに術を以てしてその才を全うせしめ、以て用に適せしむるを欲せずんばあらざるなり。

古代の賢王たちがシゴトをさせるために才能ある者を選ぶ際には、すごい奸悪なやつで、虎やヒョウのように、ぶん殴ったり噛んだりするのを止めさせることができないようなやつは仕方がないが、そういうやつで無いならば、何らかの方法でコントロールしてその能力を発揮させ、適当なところで利用することを考えないことはないのである。

利用できる者は利用する。

況為将者。

いわんや、将と為す者をや。

将軍として軍隊を率いさせる者を択ぶなら、なおさらである。(その行動を制御しつつ、その能力を最大限に発揮させることを考えねばならない。)

将以外の人材も、粗暴なやつ卑劣なやつ悪知恵のあるやつ・・・いろんな悪い部分はあっても、できるだけ利用しなければならないのである。

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宋・蘇洵「御将論」(「唐宋八大家文」巻十七)より。こうして家畜や、ゲンダイなら社畜は利用されるのである。時にはとんかつにされて食われたりもするのである。トリ唐も美味かったなあ。

 

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