平成28年12月28日(水)  目次へ  前回に戻る

カエル、ブタ、ブタイヌ。この中には誰一人として勝者はいない。

今日はついに会社を辞めてきました。ああ一年間、ヘビに睨まれたカエルのようにつらかったがよく我慢したなあ。身がすくんで動きがとれないのでシゴトせずにじっとしていた時間も、だいぶあったなあ。

ところでヘビとカエルの関係ですが、@ヘビはカエルを食べます。Aカエルはナメクジを食べます。Bナメクジはヘビを溶かします。三すくみ、というやつですね。グー・チョキ・パーと一緒です。

さて、では、@裁判官を任命した王さま・A厳正な裁判官・B王さまのおやじ(犯罪者)、だとどうなるか?

難しいですね。この困難な問題に、紀元前4世紀に取り組んだひとがいます。

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弟子の桃応が質問いたちまちたー。

舜為天子、皐陶為士、瞽瞍殺人、則如之何。

舜天子たり、皐陶(こうよう)士たり、瞽瞍(こそう)人を殺す、すなわちこれを如何せん。

舜は堯・舜・禹と続く古代の「三王」の真ん中のひとです。親孝行な聖人であった。皐陶は舜・禹に仕えた賢者で、名裁判官であった。瞽瞍は実は「瞽」も「瞍」も「目が不自由」という意味の文字ですが、「瞽瞍」さんというのは舜のおやじで、実際の視力はあるのですが、我が子の舜の有徳なのもわからない、人倫道徳について見えてない、ので「瞽瞍」と呼ばれた。チャイナの文献では悪い親から立派なコドモが生まれることを、「瞽瞍、舜を生ず」と言い回します。

「仮定のことですが、舜が王さまで、皐陶が司法官であったときに、舜の親父の瞽瞍が殺人罪を犯したとします。このときはどう振る舞えばいいのでしょうか?」

これは国家的な、あるいはチャイナ文明そのものが乗っかっている人倫関係についての危機である。よくぞこれほど限界的な状況を想像し得たものである。

孟子は答えた。

「舜のような聖人はほとんどいない。瞽瞍のような悪人もほとんどいない。もし諸君がこのような状況にぶつかるとしたら、皐陶の立場であろう。皐陶はこのとき、

執之而已矣。

これを執らうるのみなり。

犯罪者・瞽瞍を捕らえ、法に照らして刑罰を執行するしかない」

「ええー!

然則舜不禁与。

然ればすなわち舜は禁ぜざるか。

それでは、舜王さまは、皐陶が逮捕するのを禁止しないのですか!」

孟子曰く、

夫舜悪得而禁之。夫有所受之也。

それ、舜いずくんぞ得てこれを禁ぜんや。それ、これを受くる所有るなり。

「そりゃそうだ、舜王さまはどうして皐陶の逮捕を禁止することができようか。だって、皐陶の司法は古来より受け継いできた正しいものなのだからな」

問うて曰く、

舜如之何。

舜これを如何せん。

「むむむ。それでは舜王さまはどうするのですか。おやじは見殺しですか」

孟子曰く、

「そんなことはない。

舜視棄天下、猶棄敝蹝也。竊負而逃、遵海浜而処、終身訢然、楽而忘天下。

舜、天下を棄つるを視ること、敝蹝(へいと)を棄つるがごとし。竊かに負いて逃れ、海浜に遵いて処りて、身を終うるまで訢然(きんぜん)として楽しみて天下を忘る。

舜王さまは(無欲で、)天下を棄ててしまうことと、破れた草履を棄てることとを同じぐらいに思っておられるお方である。見つからないように親父の犯罪者・瞽瞍を背負って逃亡し、王国の力の及ばない東の海のほとりにまで逃げて、そこで死ぬまで(親と一緒に)にこにこと楽しんで暮らし、天下のことなど忘れてしまう。

ことであられるだろう」

南宋の朱晦庵曰く―――

士たるものは法の執行のみを考えて、天子のおやじだとなんとかといった余計なことを考えてはならない。子たるものは親父のことだけ考えて、天下がどうだとかこうだとかといった余計なことを考えてはならない。

其所以為心者、莫非天理之極、人倫之至。

その心を為す所以は、天理の極、人倫の至りにあらざるなきなり。

このように考える心理というのは、天の理の行きつく先、人の道の至るところ、そのものなのである。

学者察此而有得焉、則不待較計論量、而天下無難処之事矣。

学ぶものここを察して得る有れば、すなわち較計論量を待たずして、天下に処し難きの事無からん。

諸君らは、ここのところよくよく考えて、「わかった!」ということがあったなら、もういろんな比較をしたり議論をしたりする必要も無く、世界には処理しがたい事など無くなるであろう。

ほんとかい? という気もしますが、みなさん、よくよく考えてみてください。

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「孟子」尽心章上篇第35章「朱子集注」による)。結局、この三すくみはグー・チョキ・パーのうちチョキだけが残ることになるようです。

さて、いつものように、吉田松陰先生の解説をいただきます。()

―――新井白石先生「読史余論」に以下のように書いてある。

・・・「保元の乱」のとき、(源)義朝に父・為義をお斬らせになったのは、日本史上前代未聞の大事件であった。

且は朝家の御誤(おんあやまり)、且は其身の不覚也。

ひとつには朝廷の大失敗であられる。いまひとつには義朝のふるまいが最低最悪であった。

(上記の「孟子」の記述を引用し)義朝が本当に父を助命しようとしたら、方法は無かったわけではないのだ。恩賞を返上するのはもとより、我が身に換えて助命すればよかったのだ。

と。・・・

此説先づ我が意を得たり。

この説明はまっさきにわたしの賛同するところである。

もしこのようにして助命できないのなら、おやじと一緒に死ねば何も後悔することは無かったであろう。舜の例だって同じである。殺人者を背負って逃げ出したとしても、天下の力を以て追捕されればあっという間に発見され、ニコニコして暮らすなんてことができるはずが無かったかも知れないのだ。

然れども立所(たちどころ)に父子命を倶にして死するとも、亦終身訢然たるに害なしとす。

けれども、あっという間に親子ともどもぶっ殺されたとしても、それでも「死ぬまでニコニコ」という点では成功である、と考えたのである。

―――以上、「講孟余話」五月廿六日条より。

もともと舜も皐陶も瞽瞍も伝説のひとで、しかも桃応は最初に「仮定のことですが」と断っているので、実在の歴史的事案と単純には比較できない―――と思うのですが、松陰先生には宥されないのである。

 

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