平成28年10月2日(日)  目次へ  前回に戻る

才能があってもそれを認める能力のある者がいないのだから認められることは無いであろう。

やっと10月になったのに、なんと、また明日から平日。

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平日だからといって、わたしどもなどがしごとになんか行ってもいいのだろうか。

伯楽一過冀北之野、而馬群遂空。

伯楽ひとたび冀北の野を過ぎて、馬群ついに空し、といえり。

伝説的な馬選びの名人である伯楽が、馬の名産地である河北の冀州を通り過ぎると、馬の群れが空っぽになってしまった―――という。

さて。

冀北馬多天下、伯楽雖善知馬、安能空其群耶。

冀北の馬は天下に多く、伯楽善く馬を知るといえども、いずくんぞよくその群れを空しくせんや。

冀州はチャイナで一番馬の多い土地である。伯楽がどんなに馬の能力を見極める名人だといっても、どうして冀州中の馬を空っぽにしてしまうことができるだろうか。

・・・疑問に思っていたところ、あるひとが、これを解説してくれた。

「よく考えてみろ。馬の能力を選ぶ名人が、どうして駄馬まで含めた馬の群れを根こそぎ連れていくことがあるだろうか。名人であればこそ、どうしようも無いやつはどう取り入っても放っておかれるに決まっているだろう。

吾所謂空、非無馬也。無良馬也。伯楽知馬、遇其良輒取之。

吾のいわゆる「空し」とは、馬の無きにあらざるなり。良馬の無きなり。伯楽は馬を知り、その良に遇えばすなわちこれを取る。

われわれが「空っぽになってしまった」というのは、馬が一頭もいなくなってしまった、というのではないのだ。連れていく価値のある馬がいなくなってしまった、ということなのだ。伯楽は馬の能力を知り、価値のあるのを見つけたら、どんどんそれを連れて行ってしまう。

群無留良焉。苟無良、雖謂無馬、不為虚語矣。

群れに良を留むる無し。いやしくも良無ければ、馬無しというといえども、虚語とは為さず。

それで、群れの中には価値のある馬は一匹もいなくなってしまう。価値のあるのがいないなら、「馬はいない」と言ってもウソではないだろう。

普段は「おれには大変な才能があるのだが、誰もおれの価値を認めてくれない」と嘆いているやつは、伯楽にも見放されたときには、どうやって嘆くのであろうか」

ああ、この東都(洛陽)は士大夫の冀州である。

ところが大夫・烏公が洛陽太守となってから、良質な士大夫はみな彼に随って仕官した。処士(仕官していない人)の温某もその一人である。彼は立派なひとなので、彼が国家のために働いてくれることになったのは、素晴らしいことである。天下のためにこれを祝賀する―――というようなことが以下に続きますが、省略。

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唐・韓退之「送温処士赴河陽軍序」(温処士の河陽軍に赴くを送るの序)「唐宋八家文」巻四所収)より。
おいらたちは「馬」には勘定されずに遺されるタイプの典型ですので、「価値を認めてくれない」なんて嘆きはしませんけど、やはりしごとになんか行かない方が社会のためにもいいのカモ。

 

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