平成28年9月17日(土)  目次へ  前回に戻る

すさまじいエネルギーを要するブタロボット。能力の高いひとは腹が減りやすいのだ。

色や名誉はどうでもいいので、食い物ぐらい欲望のままに振る舞ってみたいものだが。

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唐の時代に、段文昌というひとがおりました。

若いころ江陵の町に暮らしていたが、

甚貧寠、毎聴曾口寺斎鐘動、詣寺求食。

甚だ貧寠し、曾口寺の斎鐘動くごとに、寺に詣りて食を求む。

たいへん貧しく困窮し、近くの曾口寺というお寺で食事の合図の鐘が鳴ると、すぐに寺に行って食事のお布施に与かっていた。

しかし自分は読書人だという自負もあって態度がでかかったので、

寺僧厭之、乃斎後扣鐘、冀其来不逮食。

寺僧これを厭い、すなわち斎の後に鐘を扣き、その来たるも食に逮(およ)ばざるを冀せり。

寺の食事係の僧侶に嫌われた。僧侶は、食事の後に鐘を叩いて、段がやってきたときにはもう食べ物が無い、ようにした。

イジワルをしたんです。

段は、飯をもらえず帰るときの僧侶の冷笑する目が、忘れられなかったという。

彼は後に役人になって大いに出世し、江陵を含む荊南の節度使として赴任してきたとき、揮毫を求められて、

曾遇闍梨飯後鐘。

かつて遇う、闍梨(じゃり)が飯後の鐘。

むかし阿闍梨(僧侶)が飯の後で鐘を撞く、という目に遇わされたなあ。

と書いたそうなのでございます。

出世してからはたいへん贅沢をし、

以金蓮花盆盛水濯足。

金蓮花盆を以て水を盛りて足を濯ぐ。

黄金の蓮華のかたちをした豪華な水盤に水を入れて、足を洗っていた。

徐商というひとがこの贅沢を批判する意見書を提出してきたところ、「ふふん」と笑って、曰く、

人生幾何、要酬平生不足也。

人生いくばくぞ、平生の不足に酬いんことを要す。

「人生にどれほどの時間があると思っているのか。わしはかつて足らなかった分を埋め合わせするのに忙しいのじゃ」

とうそぶいたそうでございます。

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宋・王讜編「唐語林」巻六より。年功序列で少しは給料増えたので、若いころに食べたかった牛丼特盛とか、今食べようとすると腹が受け付けない悲しさよ。並盛で十分なのである。

 

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