平成28年8月23日(火)  目次へ  前回に戻る

努力を積み重ねて少しでも高いところ、清らかなところに近づきたいものだ。

ツラいこともあるが、去年から今年の六月までのことを思えば、お助けいただいている、ありがたい、勿体ない、というキモチも出てくる。

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江戸末期から昭和初期にかけて「妙好人」(在家の真宗信者で真理を得たひと)といわれた因幡の源左さんのコトバ。

○源左は牛を連れて耕作に出かけるとき、必ずこう言うた。

デン(因幡方言でウシのこと)よデンよ、今日も亦働きに行かあで、晩にや御馳走してやるけえなあ。さあデンよ、出かけよういや。

牛よ、牛よ、今日もまた働きに行こうぞ。晩には御馳走してやるからな。さあ、牛よ、出かけようよ。

田畑から帰るときにはこう言った。

デンよ、今日は一日えらいめさしたなあ。帰(もど)りまで荷物持たせえのう。・・・デンにひとり持たせらせんぞ。おらもこの通り持って帰(いね)るけんなあ。

牛よ、今日は一日たいへんなめにあわせたなあ。その上帰りには荷物まで背負わせてなあ。うんにゃ、おまえだけに持たせはせんぞ。おいらもこのとおり(持てるだけの荷物は)持って帰るからなあ。

ニンゲンの部下にさえこの程度のことを言わないお偉いさんがいたら驚きますね。いないと思うけどね。うっしっし。

○働かない牛がいると、飼い主は源左に頼んで自分の田畑の耕作をしてもらった。そんなとき源左はその牛のするがままにさせておく。別段歩かせようともせず、よそ見しているならそのままに、草を食いたがれば食うままにさせておいた。

そうしてだいぶ好き放題させておいてから、言った。

デンよ、まあ歩かいや。ひとさんが横着者だつて笑はれるけれなあ。

牛よ、まあ歩いてみようよ。他人さまから横着ものと嘲笑されてしまうからな。

すると牛はこっとりこっとりと歩き出し、働き始めるのであった。

○源左が田んぼに出かけようとしているところへ、ある人が訪ねてきて、

「仏の源左というのはあんたかね?」

と言うと、源左はうなずいて、

おらのことで御座んせようで。この源左を仏にしたるつて親さん(←真宗で阿弥陀如来をいう語)が云わしやるだけのう。

わたしのことでございますようで。この源左を仏にしてやると、親さんがおっしゃられますからね。

阿弥陀如来が云うならそのとおりですね。

○伯耆まで所用があって出かけたが、その家が忙しそうだったので座りもせずに帰ろうとした。家人が

せっかく来なはつたもんだけ、一口でもええから御縁に合はしなはれなあ。

せっかくお見えいただいたのだ、一言だけでいいから仏縁に会わせてください(何かいい話をしてください)。

と頼んだところ、

こないだ家の猫が仔を産んでやあ。親は仔をくはへて上ったり下りたりするけつど、親はおとさんわいなあ。

この間、うちのネコが子ネコを産みましたのじゃ。見ていると、親ネコは子ネコをくわえて、あちらへ行ったりこちらへ行ったりするけど、絶対に子ネコを落とすことはありませんな。(そのように如来はすべてのひとを救済してくれますよ。)

と話すと、お茶も飲まずに帰ったという。

○ある家で言った。

おかみさん、この世のこたあ、何につけ「させて」の字をつけなはんせえよ。貰ふぢやなあて、貰は「させて」貰ひなはれ。こらへるやなあて、こらへさせて貰ひなはれ。

おかみさん、この世のことは、何にでも「させて(いただく)」という言葉をつけてみなさい。「もらう」ではなくて「もらわせて」もらいなさい。「こらえる」ではなくて「こらえさせて」もらいなさい。

これはわしにもできるかも。

○源左いう、

新聞によう出るがのう。人殺し人殺しって、世の中にや恐ろしいことがあるやあに思つとつたが。人殺しは外に在るのぢやなあて、この胸の内に在るでのう。

新聞によく出ているのう、「人殺し」「人殺し」と。世の中には恐ろしいことがあるなあ、と思っていたが、(よく考えると)人殺しは外にいるのではないのだ。このわしの胸のうち(おまえさんの胸の内)にいるのだぞ。

むむ。これはご明察じゃなあ。

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柳宗悦等編「妙好人因幡の源左」より。因幡・気多郡の源左衛門(1842〜1930)は明治になってからは足利喜三郎と名乗ったそうであるが、因幡源左という呼び名で名高い。

若年時に父が死に際して阿弥陀の信仰を頼むように言い残したため長い間生死のことについて悩んでいたそうであるが、ある夏の朝、暁前に出かけて、

牛(でん)を追うて朝草刈に行つて、いつものやあに六把刈つて、牛の背の右と左とに一把づつ附けて、三把目を負はせようとしたら、ふいつと分からしてもらつたいな。牛や、われが負ふてごせつだけ、これがお他力だわいやあ。ああ、お親さんの御縁はここかいなあ、おらあその時にや、うれしいてやあ。

牛を連れて、朝草刈りに出かけ、いつものように六束刈って、牛の背中の右側と左側に一束づつ掛けて、三束目を背中に乗せようとしたとき、突然に分からせてもらったのだ。牛よ、おまえが背負ってくれるから、(楽になる。)これが他力というものなんだな。ああ、お親さんにいただく御縁はこれなんだ、と、おいらはそのときにはうれしかった。

ところが、夜明けを迎えて一休みしていると、

また悩みが起つて来てやあ。

またもやもやと悩み出した。

そのとき―――、

「われは何をくよくよするだいやあ。仏にしてやつとるぢやあないかいや。」

と如来さんのお声がして、はつと思つたいな・・・もどり(帰り)にや、お親さんの御恩を思はせてもらひ乍ら、戻つたいな。

「おまえは何をいろいろと考え込んでばかりいるのだ。仏にしてやっているではないか」

という如来さまのお声がしたので、はっと思った。・・・そのあとの帰りには、お親さんの御恩をかみしめながら、帰ったものだ。

牛(でん)には「善い御縁をもらった」というて、一生大事にしたのである。

なお、妙好人・源左の「くちぐせ」として今に伝えられているコトバがある。

勿体なう御座ります。ようこそようこそ、なんまんだぶなんまんだぶ。

これぐらいは覚えておかねば。ねばねば。

 

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