平成27年10月3日(土)  目次へ  前回に戻る

ともにがんばろう!なんて言葉に引きずられ・・・

おいらは山中の肝冷童子。昨日で肝冷斎がまたひとり、社会にすりつぶされたようでちゅね。はやくこちらに来ればよかったのに。

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むかしむかしのことですよ。

愚かな童子がおりまして、大きな池のほとりに行って、水の中を覗き込んだら、なんと、

見水底影有真金像。

水底に真金の像の有る影を見たり。

水底に黄金の像のすがたが見えるではありませんか。

「うわーい」

童子は、

呼有金、即入水中、撓泥求覓疲極不得還出。

金有りと呼びて、即ち水中に入り、泥を撓めて求覓(もと)むるに、疲れ極むる得ずして還(かえ)り出づ。

「黄金がありまちゅよー!」

と叫んで、水中に飛び込んだ。水底の泥をかき分けて探したのだが、ふらふらになるまで探しても見つからないので、岸に戻った。

「疲れましたね」

と言いながら、

復坐須臾水清又現金色。復更入裏、撓泥求覓亦復不得。

また坐するに須臾にして水清み、また金色を現わす。またさらに裏に入り、泥を撓めて求覓むるもまたまた得ず。

再び岸辺に座っていると、泥が収まってだんだん水が澄んでまいりました。すると、また水底に金色のものが見え始めた。

「うわーい」

愚かな童子はまたどぼんと水中に入り、泥をかき分けて探した―――のですが、やはり見つかりません。

そこへ童子のおやじが通りかかり、水の中でじゃぶじゃぶやっている息子を見かけて

「何をしているのじゃ? ずいぶん疲れ果てておるようだが・・・」

と問いかけた。

「ああ、お父上ちゃま」

童子、答えて曰く、

水底有真金。我時投水欲撓泥取、疲極不得。

水底に真金有り。我、時に水に投じて泥を撓めて取らんとするに、疲れ極むるも得ざるなり。

「水底にほんもの黄金があるので、おいら、さっきから水に飛び込んで泥をかき分けて取り出そうとしているのですが、ふらふらに疲れ果てるまで探しても取り出せないのでちゅう」

と言って、ニヤニヤしました。

「ほほう」

父看水底真金之影。

父、水底真金の影を看る。

おやじさんは、息子の指し示す水底を見ました。確かに金色の像が見えますが、どうもこれは実物ではないのでは・・・

「息子よ、この黄金は水底にあるのではなく、水に映っている影ではないかと思わないか?」

「ほえ?」

父親が池に影を映している木を見上げると、

金在樹上。

金は樹上に在り。

木の枝の上に、確かに黄金の像があったのです。

父親曰く、

必飛鳥銜金著於樹上。

必ず飛鳥の金を銜えて樹上に著すならん。

「おそらく鳥がどこかからくわえて持って来て、食べられないので枝の上に置いておいたものであろう」

こうして、黄金の像は、

上樹求得。

樹に上りて求め得たり。

木に登って取ってくることができた。

のでございまちた。ああよかった。

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斉・天竺三蔵求那毗地訳「百喩経」より「水中金影」の譬えにござりまちゅる。おお、弱き肝冷斎一族よ、この喩えを読みて思うことあらばこの山中に戻り来るがよい。おまえたちの求めているのは泥の中の影ではありまちぇんかな? 月曜日まではもう24時間ぐらいしかないのであるぞよ。「会社に連絡が必要で・・・」などと言うておる時間はありませんぞよ。

ところでこの「水中金影」の喩えを読んで、次のような感想を記している人がいまちたので、参考までに掲げておきまちゅね。(カタカナはひらがなに改め、適宜送り仮名を付した)

今の人、書を読みて道を書籍の上に求め、之(これ)を我が心に求むることを知らず。・・・政略、法律、文明開化、之を欧米に求め、之を欧米の書中に求め、而して我が心の中に之を求むることを知らず。あわれむべきことならずや。明治十二年十月廿七日。

植木枝盛「無天雑録」巻二より。「欧米か!」ということですか。

 

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