平成27年6月27日(土)  目次へ  前回に戻る

ウシならしようがないかブー。

頭痛がひどいんです。だが今日は休日だから張り切って、「春秋」を読んでみましょおー。

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魯の成公の七年(前584)

春王正月、鼷鼠食郊牛角、改卜牛。

春、王の正月、鼷鼠(けいそ)郊牛の角を食らい、牛を改卜す。

「鼷鼠」(けいそ)とは「イタチ」だろうといいます。「郊牛」というのは、魯の都城の外で行われる夏の祭りである「郊祭」のイケニエに予定されている神聖なウシのこと。

新春、周王の暦の正月、イタチが郊祭の犠牲用の牛の角をかじった。(縁起が悪いので)占って、別の牛を選び直した。

という記事がございます。

ところが、郊祭の前に、

鼷鼠又食其角、乃免牛。

鼷鼠、またその角を食らい、すなわち牛を免ず。

イタチがまた改めて選ばれた牛の角をかじったので、この年のイケニエには牛は用いないことにした。

古代の祭りでイケニエにされたものは、神霊に捧げたあとみんなで分けて食べるのが習いでしたから、この年は牛肉は食べられなかったのである。

角をかじられたのは、

祭天不慎。

天を祭るに慎まざるなり。

(郊祭という)天を祭る重要な行事に当たってこのような失態が起こったのは、慎重でなかったのである。漢・京房

皆養牲不謹也。

みな牲を養うに謹まざるなり。

二回もこんなことになるとは、重ね重ね、大切な犠牲を飼うのに謹しまなかったのである。漢・董仲舒

と、漢の大学者たちがお怒りになられております。

ところがそのほぼ九十年後の定公十五年(前495)、同じような事件が起こりました。

鼷鼠食郊牛、牛死。改卜牛。

鼷鼠、郊牛を食らい、牛死す。牛を改卜す。

イタチが郊祭用の牛をかじってしまい、牛が死んだ。そこで占って別の牛を選び直した。

今回は「角」に限定されていません。「公羊伝」によれば、

曷為不言其所食。漫也。

なんすれぞその食らうところを言わざる。漫なればなり。

どうして、どこをかじったのか明らかに言わないのか。それは限定できないからである。

注にいう、

漫者、徧食其身。

漫なるものはその身を徧食するなり。

「限定できない」というのは、全部食われたからである。

なんと、全身を食われたのです。みんなで食えなかったのは大いに残念ですが、イタチに全部食わせてしまうとは! 飼育係のやつらはどうしていたのか。「穀梁伝」に曰く、

不敬莫大焉。

敬しまざること莫大なり。

警戒していなかったことが、これ以上ないレベルである。

と。怪しからんことです。

飼育係はさすがに解雇された(物理的に「クビを斬られた」かも知れません)と思うのですが、翌、哀公元年(前494)、またまた

鼷鼠食郊牛、改卜牛。夏、四月、郊。

鼷鼠、郊牛を食らい、牛を改卜す。夏四月、郊す。

イタチが郊祭用の牛を食ったので、占って別の牛を選び直した。夏四月、郊の祭りを(無事)行った。

のであった。

このときは牛の死が記されていません。これは、「穀梁伝」によれば、

鼷鼠食郊牛角、改卜牛。志不敬也。

鼷鼠の郊牛の角を食らいて、牛を改卜せり。志敬しまざるなり。

イタチが郊祭用の牛の角をかじったので、占って別の牛を選び直したのである。これは警戒心が緩んでいたためだ。

ということなので、「角」だけだったから、のようですが、「角」だけで気づいたので、「莫大」(これ以上ないレベル)というほどには批判されていないわけなんですね。

・・・・・・以上の記述から、民国・楊樹達「春秋大義述」「「春秋」の重大な思想を明らかにする」)によれば、

鼷鼠食郊牛、譏。

「鼷鼠、郊牛を食らう」とは譏(そし)るなり。

「イタチが郊祭用の牛を食った」と書いてあったら、それは(当時の為政者を)批判しているのである。

ということがわかるのである。

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だからどうしたのだ、と言われると困るのですが、こういうのオモシロいですよね?ね?ね?

ちなみに楊樹達は日本留学も経験した歴史学者ですが、「春秋大義述」の書は抗日戦真っ最中の民国三十年(1941)に書かれ三十三年(1944)に出版されております。

倭奴狂狡、陵我中華五十年於此矣。

倭奴狂狡、我が中華を陵することここに五十年なり。

倭のやつらはキ○ガイでかつずるがしこく、我が中華に攻め込んで来て、もう五十年になるのである。(←日清戦争から数えている)

という問題意識のもと、「復讐」「攘夷」から書きはじめられたものだそうで、今日引用したところはそうでもありませんが、チャイナ人でありながら異狄に仕えた者を激しく譏るなど、あちこちに熱い思いがほとばしっておられます。

 

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