平成27年2月17日(火)  目次へ  前回に戻る

(春はほんとうにそこまで来ているんだろうか?)

今日は旧暦の大みそか?いやそれは明日のはず。いずれにせよ間もなく雨水節だというのに、寒いです。今朝は雪降ってたんですよ。ひどい。

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ひどい、言いますとこれもひどいお話でございますが・・・。

太平天国の平定に大いに力を振るい、清の中興の名臣といわれる文正公・曾国藩さまでございますが、そのおやじの竹亭さまもなかなかのひとであったそうでして、その家にはもと竹亭さま自作の次のような対聯が懸かっておりましたそうです。

有詩書、有田園、家風半読半耕。但以箕裘承祖澤。

無官守、無言責、時事不聞不問。唯将艱鉅付児曹。

「詩書」は五経のうち「詩経」と「書経」のことで、これによって儒教的古典を代表させた。

「箕裘」(ききゅう)は、礼記・学記篇」

良冶之子、必学為裘。良弓之子、必学為箕。

良冶(りょうや)の子は必ず裘を為すを学ぶ。良弓の子は必ず箕を為すを学ぶ。

優秀な冶金家(鍛冶師)の跡取りは、(鍛冶そのものを学ぶ前に)必ずふいごの空気を送るための袋を毛皮から作ることを学ぶ。優秀な弓師の跡取りは、(弓そのものを作る前に)必ず竹を使って作る基本的な道具である「箕」を作ることを学ぶ。(すぐれた技術は、まず基本から学ばねばならないのだ。)

という言葉を踏まえて、「先祖伝来の事業を継いでいくこと」を言っております。

「鉅」(きょ)は「大きい」。「艱鉅」と続けて「たいへんな苦労」のこと。

詩書有り、田園有り、家風は半ば読み半ば耕す。ただ箕裘を以て祖澤を承けん。

官守無く、言責無く、時事は聞かず問わず。ただ艱鉅を将(もち)いて児曹に付さん。

 詩経や書経の書物はあり、一方、所有する田畑もある。我が家は読書人階層でもあり農家でもある田舎者。この伝来の家業を守っていくのが、御先祖さまへの御恩返し。

 役人ではないので、所掌事務も無ければ、言論について責任を問われることも無い。現代の諸問題について、誰も告げるひとはいないし、こちらから訊ねる必要も無いというのがわしの立場。たいへんな苦労は子どもたちが(役人になって)することになるだろう。

さて、この対聯のとおり、曾文正公は役人となってたいへんな勲功を挙げられた。その名声と権力が天下に響き渡ると、お父上は郷里の湘州でずいぶんとその権勢をお恃みになられて、好き放題をなされたとかなんとかにございます。

お父上をはじめ、文正公の御親族さまが

請於官必従之而後已。

官に請えば、必ずこれに従いて後已む。

県庁の方に何かおっしゃりますと、必ずその要請どおりに事が運ばないではいなかった。

のだそうでして、特に四番めの弟さまの曾澄さまの行いが甚だしかった。

有所悪輙以会匪送官、請殺之。殺五六十不能釈一也。

悪(にく)むところ有ればすなわち会匪を以て官に送り、これを殺さんことを請う。五六十を殺して一を釈するあたわざるなり。

気に食わない相手がいると、匪賊であると役所に告訴し、死罪にするよう要請したのである。これによって五十人から六十人が殺されたが、この間、ただの一人として死罪を免れた者が無い、というありさまであった。

もちろんこれはお父上さまの御意志も反映されてのこと。

県令の熊某というのは慈しみ深いという評判の役人であったが、彼にもどうすることもできず、

毎数日必私哭。或問故、曰曾四爺又欲仮我手殺人矣。

数日ごとに必ず私(ひそ)かに哭せり。あるひと故を問うに、曰く「曾四爺(そう・しや)また我が手を仮(か)りて人を殺さんとすなり」と。

何日かに一回は必ず自宅で声をあげて泣いていた。

あるひとが「なぜそんなことをしているのか?」と訊くと、

「曾家の四番目の方が、またまたわしの手を使って人殺しをしようとしているのじゃ・・・」

と答えたという。

さて、湘州では新しい碼頭(ばとう。川の渡し場)を開設することになった。

竹亭さまと曾澄さまは、

「この地ではこういうときには

故事必殺牲以祭。

故事、必ず牲を殺して以て祭す。

むかしから、必ずイケニエを捧げて、地鎮祭を行うものじゃ」

と言い出し、しかも

勧殺人、遂殺十六人祭之。

殺人を勧め、遂に十六人を殺してこれを祭れり。

人を殺すのが一番効き目がある、と人民どもを煽動し、ついに気に食わない者を十六人も殺させて、地鎮祭のイケニエにしてしまった。

文正公、あるとき里帰りされてこの状態を知った。なにぶん封建時代でございますので、

不能諌其父。

その父を諌むるあたわず。

おやじさまに文句を言うわけにはいかない。

と考えてお父上には何も申し上げなかったが、なんとかしなければならぬ、と思っていた。

ある日、

澄方昼臥。

澄、まさに昼に臥せり。

弟の曾澄が昼寝しているのを見かけた。

文正公はその姿を見ると、何としたことか、

「えい!」

とばかりに、

遽以錐刺其股。

にわかに錐を以てその股を刺せり。

突然、キリで澄さまのふとももを突き刺したのである!

「うひゃあ!」

流血被体、澄遽呼暴。

流血体を被い、澄、にわかに「暴なり」と呼ぶ。

ぶちゅぶちゅと血が流れて体にかかり、曾澄は飛び起きて、「ひどい」と大騒ぎした。

曾文正は表情を変えもせず、

問故。

故を問う。

「どうしたのだ?」と問いただした。

澄は答えた、

痛甚。

痛、甚だし。

「すごく痛いじゃないですか!」

文正公、首をひねっておっしゃった。

「おまえは痛みを感じられたのか。

然則爾殺人乃不痛耶。

しかれば、なんじ、人を殺してすなわち痛ならざるか。

それなら、おまえはどうして人を殺しても(心が)痛まかったのだ?」

と。

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「清朝野史大観」巻七より。一休さんみたいなオチになりました。

それにしても、成功者一族の横暴、家長主義、儒教的タテマエと欲望剥き出しのゲバルトの共存、パターナリズム、流血、人民の愚昧、地方権力の人治主義、残虐刑の横行・・・。いかにもまことに「これこそチャイナでござい」というようなエピソードでございますね。ほんとうかどうかは知りませんケド。

 

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