平成26年10月17日(金)  目次へ  前回に戻る

←パン職人も職人の一種。

しごとツラかった。

・・・・・・・・・・・・・・

しかし週末なのでがんばって更新します。今日は13日の月曜日の続き。

紀元前502年のこと。

晋の大夫が衛の君主・霊公と盟を交わした。このとき、

衛人請執牛耳。

衛ひと、牛耳を執らんことを請う。 ・・・

この一文、いわゆる「牛耳を執る」という成語の典拠です・・・が、実はこの「牛耳を執る」というのは誓いの儀式である「盟」を行うときに、犠牲にした牛の耳を割いて血を採り、盤(さら)に注ぐ行為なわけですけれど、二つの相対立する解釈があるのでございます。

@  この行為は「盟」の主宰者側が行う行為である。

A  この行為は「盟」の際、下位者が行う行為である。

ゲンダイにおいて「牛耳を執る」という言葉は、みなさん@の意味で使っているはずですが、古来の通説はAらしいので要注意。(←試験に出るかも知れませんからね)

の通釈は

@  説だと・・・(君主が列席している)衛側は主宰する側として牛の耳を割く役をさせてくれ、と申し出た。

A  説だと・・・(君主が列席している)衛側は、大夫しか出ていない晋側に、下位者として牛の耳を割く役をするように要求した。

ということになります。

閑話休題。

晋は大国です。大夫らに驕りがあった。

「衛は、我が晋の領邦内にある都市・温や原と同じようなもの。

焉得視諸侯。

いずくんぞ諸侯と視るを得んや。

どうして我が晋と同等の独立國扱いができようか。

とこの申し出を断った。

さらに、犠牲獣の血を盤(さら)からすすりあう儀式のときに、晋の大夫の一人が衛公の腕を押し、ために血がこぼれて衛公の袖を汚すということがあった。

衛侯は大いにお怒りになった。

公のお怒りの様子を見てとって、随行の衛大夫・王孫賈が小走りに走り出て、

盟以信礼也。有如衛君、其敢不唯礼是事、而受此盟也。

盟は以て礼を信(あきら)かにせんとするなり。衛君の如き有れば、それあえて、ただにこの事に礼しこの盟を受けざることあらんや。

「盟」というのは礼儀の気持ちを明らかにするための儀式でございます。もし晋の側に我が衛の君主に匹敵するような地位の方がおられましたら、もちろん礼を尽くしてこの「盟」を行いましたのになあ。

と言うと、衛公をその場から立ち去らせ、衛公はそのまますぐに帰途についたのであった。

帰り道、馬車の中で怒りおさまらず、晋を盟主と仰ぐ同盟から離脱したいと思った。しかし衛の大夫たちは晋の力を畏れてそれに賛成しないのではないか。

公は王孫賈に命じて、国都にたどりついてもその城門をくぐらず、自ら城外に宿営した。

衛の大夫たちは城内から出てきて、公の前に跪いて、その理由を問うた。

公は晋の大夫たちから受けた非礼について語り、曰く

寡人辱社稷。其改卜嗣、寡人従焉。

寡人(かじん)社稷(しゃしょく)を辱(はずか)しむ。それ嗣を改め卜せよ、寡人従わん。

「寡人」は「ダメ人間」という程度の意味で、春秋時代の諸侯の自称です。みなさんが自由人なのに自分のことを「僕」(奴隷、下男)というのと同じような謙譲の自称。「社稷」の「社」は土地の神、「稷」は穀物・農業の神。「社稷」というと「国そのもの」の意になります。

「わしに威厳が無い故にわしは晋の大夫どもから非礼な扱いを受け、我が衛国に恥をかかせてしまった。みなの衆、すぐに占いを行ってわし以外に適切な人物を君主に選び直してくれ。その決定にわしは従おう」

と言ったのであった。

大夫らは驚き、身をすくめて曰く、

是衛之禍、豈君之過也。

これ衛の禍いなり、あに君の過ちならんや。

「これは我ら衛國全体に仕掛けられた災難でございます。なんじょう殿おひとりが責めを負うことがござりましょうぞ」

公はまた大夫らに、

「もう一つ心配事がある。晋は、我が國が晋に叛かぬようにするため、わしの息子の誰かと、おまえたち大夫の息子を一人づつ、人質に出せ、と言うてきておるのだ」

と告げた。

「おお」

大夫らはしかし、声を揃えて言うに、

苟有益也、公子則往、群臣之子敢不皆負羈紲以従。

いやしくも益有れば、公子すなわち往くに、群臣の子、あえてみな羈紲を負うて以て従わざらんや。

「もしもお役に立ちますならば、公子さまが人質に行かれるときには、われら群臣の息子どもは馬のたずなを執ってお供いたしまする」

大夫たちには積極的に晋に反抗する気は無いようであった。

「そ、そうか・・・」

公は唇を噛む思いでそれ以上大夫らを煽るのを止めた。

―――さて、いよいよ人質になるために公子の一人が選ばれ、また群臣の息子たちがそれぞれ選ばれた。

その発表の際、公は王孫賈に、ほかの大夫たちに向かって言わせた。

「こうやって人質を送り出しても、われわれは晋にいつまでも従ってはおれないこともありえよう。今日人質に選ばれた子どもたちはそのときにはその命を失うのであるから哀しいことである。

そのときは我々はこの城内に立てこもって戦うことになるわけだが、

苟衛國有難、工商未嘗不為患、使皆行而後可。

もし衛國に難有れば、工商いまだかつて患を為さずんばあらず、みな行かしめて後、可なり。

今後、衛の國に国難があったとき、城内の職人や商人は邪魔ものになるように思われる。いっそのこと彼らをすべて人質に同行させてしまってはどうだろうか。そうしてはじめてわれわれは安心して晋との関係を判断できるのではないだろうか」

と。

公は大夫らに

「おまえたちはどう思うか」

と問うと、大夫らは

「同行させるのがよろしいでしょう」

と答えた。

その日、城内の職人や商人に期日を定めて晋の国都への移住が命じられ、国人(市民)たちは大騒ぎとなった。

行有日、公朝國人。

行の日に有りて、公、国人に朝す。

その出発の期日に、公は、城内の市民らを外朝に集めて、会議を開いた。

そして、王孫賈に、市民らに問いかけさせた。

「おまえたちに晋に移住してもらおうと思うのは、我が国が晋に叛いたときにおまえたちが足手まといにならないようにするためである。ところで、

若衛叛晋、晋五伐我、病何如矣。

もし衛、晋に叛くに、晋五たび我を伐たば、病いかんぞ。

もし我が國が晋を盟主とする同盟から離反したとき、晋が五回にわたって我が国を討伐しに来たとして、我が国はどんなになってしまうと思うか」

市民らは答えた。

五伐我、猶可以能戦。

五たび我を伐つも、なお以てよく戦うべきなり。

「五回にわたって我が国を討伐してきたとて、まだまだ抵抗する力はありましょうぞ」

王孫賈は言った、

「ほんとうか?」

「ほんとうです」

そこで、王孫賈は衛公とほかの大夫に向き直り、言うた。

然則如叛之、病而後質焉、何遅之有。

しからばすなわち、もしこれに叛くも、病して後に質すれば、何ぞこれに遅るること有らん。

「彼らのいくことがほんとうなら、もし晋から離反したとしても、抵抗できなくなってから人質を出したりみなの衆に移住してもらえばいいのではないでしょうか。そのときになってからでも遅くはないでしょう」

衛公は頷き、その場で大夫と群臣と國人(市民)らに告げた。

「晋から離反しよう。我が国は晋から攻められても、力を合わせて戦えば社稷を守りきることができるであろう」

その提案は歓呼によって支持され、衛は、晋から離反することに決したのであった。

ここに至って

晋人請改盟、弗許。

晋ひと、盟を改めんことを請うも、許さず。

晋のひとはもう一度同盟の誓いの儀式をきちんとやり直したいと申し出たが、衛はこれを拒否した。・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「春秋左氏伝」定公八年条より。

これが、都市国家の意思が「國人」といわれる自由民たちの直接の意思表示で左右された「外朝」の事例として、文献史料に明確に遺っているものでございます。月曜日に引用した「周礼」「少司寇」の役をこの衛の例では、どうやら王孫賈が掌っているらしい、というのも読み取れますね。

また、このことはチャイナにも古代には民主制があったという証しともされる。もちろんゲンダイのメインランド・チャイナに住んでいるひとたちと古代のチャイナ中原の「國人」たちとは、現在のギリシアに住んでいるひとたちが古代ギリシア人と遺伝子的にほとんど関係がないといわれるのと同様、まずもってほとんど関係無いひとたちなんですけどね。

香港はどうなるのでしょうか。

※なお便宜上、「職人や商人」が「國人」に含まれるような前提で訳しましたが、ほんとは含まれていなかったように思われますので、みなさんもこのHPレベルのものを読むときにはあまり気にされなくても結構ですが、試験に出たときは含まれていなかったような顔をして答えておいた方が無難ですぞ。

←自分で食べる。

 

表紙へ 次へ