平成26年10月9日(木)  目次へ  前回に戻る

 

ぶにゃ、と疲れた。

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昨日の続き。

二人の童子はかたわらの孔子さまをそっちのけで言い争いを続けたのでございます。

日の出のときの太陽の方が近い、という童子曰く、

日初出大如車蓋、及日中、則如盤盂。此不為遠者小而近者大乎。

日の初めて出づるや大なること車蓋の如く、日の中するに及べば盤盂の如し。これ遠きものは小さく近きものは大なるが為ならずや。

「日の出のときのお日様(の見た目)は、まるで車の上の傘のように大きいのに、お昼のお日様はお皿ぐらいしかありません。これは、遠くにあると小さく見え、近くにあると大きくみえるから、ではありませんか」

「ぶびぶびー」

もう一人の、お昼のお日様の方が近い、という童子が不満を鳴らして曰く、

日初出滄滄凉凉、及其日中如探湯。此不為近者熱而遠者涼乎。

日の初めて出づるや滄々涼々(そうそうりょうりょう)たるも、その日の中するに及ぶや湯を探るが如し。これ近きものは熱にして遠きものは涼しなるが為ならずや。

「日の出のときのお日さまはすずしくさわやかなのに、そのお日様がお昼になりますとお湯に手を入れたときみたいにぐらぐらに熱くなっているではありませんか。これは、近くにある熱源は熱く、遠くにある熱源は熱く感じないから、ではありませんか」

「ぶびぶびー」

ともう一人の童子も不満を鳴らし、それから二人して孔子さまの方を向きまして、

「さて、どちらが正しいのかな?」「かな?」

と孔子さまのお顔を覗き込むように見上げたのでございます。

「むむむ・・・」

孔子不能決也。

孔子決するあたわず。

孔子さまはどちらが正しいかわからず、黙りこんでいた。

孔子さまが答えられないのを見て、二人の童子は

「うっしっしー」「どっひゃっひゃー」

と大笑いし、曰く

孰為爾多知乎。

だれか爾を多く知れりと為すか。

「いったいどこのどいちゅが、おまえさんを物知りだと言ったのでちゅかねー」「かねー」

そしてひとしきり嘲笑うと、二人してどこかに去って行った。

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「列子」湯問篇より。

ということで、問題の答えは「決するあたわず」(どちらが正しいのかわからなかった)ので黙っていた、でちたー。

考えてみれば、まことの賢者のふるまいとも思われます。童子どもが言い争っているときに、どちらを正しいといってもどちらかが傷つきどちらかが増上慢になりますから。さっすが孔子さまでございますなあ。

ちなみに、「だれかなんじを多く知れりと為すか」というのは、おそらく「論語」衛霊公篇の有名な一節、

子曰、賜也、女以予為多学而識之者与。対曰、然、非与。

子曰く、「賜(し)や、なんじ、予(われ)を以て多く学びてこれを識す者と為すか」

対(こた)えて曰く、「然り。非なるか」と。

先生がおっしゃった。「賜(し=子貢の名前)よ、おまえはわしのことを、いろんなことを学んで記憶している人間だ、と思うかね」

子貢こたえていうた。「そのとおりだと思うのですが、ちがいますか」

を踏まえているのだと思います。

「論語」ではこのあとに

非也。予一以貫之。

非なり。予(われ)は一以てこれを貫く。

「ちがう。わしは、一によってそれを貫いてきたのだ」

と続きます。

さて、「一」とは何か。「貫く」とはどういうことか。「之」(これ)という代名詞は何を指しているのか・・・古来いろいろ解釈のある言葉でございますが、いずれにしろ美しい会話でありまちゅね。なお、本朝平安の貴族・紀氏は漢学を以て名をなした一族ですから、「貫之」を「つらゆき」と読ませて名乗りに使ったりしていたようでございます。

 

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