平成26年6月8日(日)  目次へ  前回に戻る

 

明日は月曜日。わひゃひゃひゃ。

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さてさて。今日も昨日の続きでございます。

翌年は周の恵王の二十三年(魯・僖公六年、前654)でございます。

夏―――斉を中心とする諸侯の軍は、首止の盟をドタキャンして帰国した鄭伯を討伐するため、攻め込んでまいりました。

鄭伯の方は前年から、周王の許しを得た、と称して楚国と連絡を取り合い、また斉側の諸侯と一戦あることも覚悟して都の密城を造りなおしていた。

諸侯軍は鄭の密城を包囲したのである。

秋―――これに対し、楚は、近年斉側に寝返った許の国に兵を出した。

諸侯救許、乃還。

諸侯の許を救えば、すなわち還る。

諸侯の軍が許国を救うために鄭の囲みを解いた後で、楚は許に出した兵を返した。

おかげさまで助かった―――。鄭はこのピンチは何とか乗り越えました。

さて、その翌年は周の恵王の二十四年(魯・僖公七年、前653)でございます。

春、斉は大軍を以て再び鄭に来襲した。

鄭の大夫・孔叔は君主の鄭伯に言うた。

諺有之、曰、心則不競、何憚于病。既不能強、又不能弱、所以斃也。国危矣。請下斉以救国。

諺にこれ有り、曰く「心すなわち競わざれば何ぞ病するに憚らん」と。既に強なるあたわずして、また弱なるあたわざるは斃るる所以なり。国危ういかな。請う、斉に下りて以て国を救わんことを。

いにしえよりこのような言い回しがございまする。

「争ってもしようがない、と思ったら、下手に出るのも仕方ない」

もう勝てないとわかったならば、きちんと弱者らしい態度をとらないと、徹底的にやられてしまうのは当たり前でございましょう。今、我が国はたいへん危うい状態でございます。どうぞ斉に降伏いただき、国を救うてくださりませ。

鄭伯は答えた。

吾知其所由来矣。姑少待我。

吾、その由来するところを知れり。しばらく我を少しく待て。

「お、おいらにはこんなことになってしまった原因はわかっているのでちゅ。その原因を取り除けばいいのでちゅから、もうちょっと待ってくだちゃいよ」

孔叔はさらに言った。

朝不及夕。何以待君。

朝も夕べに及ばず。何を以て君を待たん。

「朝対応を決めたとしても夕べまで国が保つかどうか。待て、とおっしゃられて待てるような状況ではござらぬぞ」

「わ、わかってまちゅよ、ちょっとだけ待ってくれてもいいではないでちゅかー!」

どうして臣下のくせに君主に耳触りのいいことだけを告げてあげないのでしょうね。

夏、五月。

鄭殺申侯以説于斉。

鄭、申侯を殺して以て斉に説(えつ)す。

鄭の国は、申侯を死刑にして、斉に申し開きをした。

申侯を殺してから、楚との友好を重視しようとしたこと、諸侯の集まる大事な会盟の場から鄭伯が帰国してしまったこと、鄭が密城を新しく築城したことなど、すべての問題はもともと楚の寵臣であった申侯が仕組んだことだったと説明したのである。

その上で、鄭伯は

以鄭為内臣。

鄭を以て内臣たらんとす。

「今後、我が鄭は斉の同盟者ではなく家臣としてお仕えいたちまちゅる所存」

と申し出たのであった。

斉は包囲を解いた。

冬、

鄭伯使請盟于斉。

鄭伯使いをして斉に盟を請う。

鄭伯は使者を出して、斉との間で犠牲獣の血を啜り合う「盟」の儀式を執り行ってくれるよう陳情した。

・・・ということで、鄭が屈服して、申侯が死刑になって、この一件は一応のケリがつきました。

用陳轅濤塗之譛也。

陳の轅濤塗の譛を用うるなり。

陳の大夫・轅濤塗のひそかな謗りが、効果を持ったのである。

という。

ところで、申侯というひとはもと申という国の出身であったが、楚の文王(在位前689〜前677)の寵臣となったひとであった。

文王は死ぬ間際に申侯を呼び出し、形見に玉璧を与えて、曰く

唯我知爾。爾専利而不厭、予取予求、不爾瑕疵也。後之人将求多于爾、爾必不免。我死、爾必速行。無適小国、将不爾容焉。

ただ我のみ爾(なんじ)を知れり。爾、利を専らにして厭わず、予は予の求めを取りて、爾の瑕疵とせず。後のひと、爾に多きを求めんとし、爾必ず免れざらん。我死すれば、爾必ず速やかに行け。小国に適(ゆ)く無かれ、まさに爾を容れざらん。

おまえのことをわかっているのはわしだけじゃ、と心せよ。おまえは自分の利益を図ることについて熱心で、満足することが無い。わしはお前の得た利益の中からわしの必要な分だけを取っただけで、おまえの行為を罪に問いはしなかった。

しかし、わしの跡継ぎたちは、おまえにより多くのことを求めるであろうから、おまえはいずれ責任を問われることになるじゃろう。

よいか、わしが死んだら、おまえはできるだけ早くこの国を離れるのじゃ。そのとき、小さな国に亡命してはいかん。小さな国では、いずれはおまえを飼っておけなくなる。

と。

文王の葬儀が終わると間もなく、申侯は楚から亡命したのだが、結局小国である鄭に落ち着き、先代の詞(在位前700〜前696、前679〜前672)に信頼されて、重きを為したのであった。

楚の令尹(宰相)の子文は申侯が死刑になったと聞いて、つぶやいたそうだ。

古人有言、曰、知臣莫若君。弗可改也已。

古人言有り、曰く、臣を知るは君に若(し)く莫(な)し、と。改むべからざるなり。

むかしのひとが言うたことだが、

「臣下の個性や能力を一番よく知っているのは主君である」

と。この言葉は、改めることのできない真理であるといえよう。

でした。

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結局、轅濤塗の方が勝ったらしい。「春秋左氏伝」僖公六年・七年条より。この年の暮れ、いろいろ謀略をしていたらしい周王(恵王)が崩御し、斉とその同盟国も巻き込んで周王家内部の争いが始まったので、斉の桓公もいつまでも鄭のことにかかずらわっているわけにはいかなくなった。そのうち桓公も死んでしまったりして、鄭伯文公はこのあとも二十年以上鄭の君主としてがんばりまっちゅ。

ちなみに、「春秋」には「左氏伝」以外に漢代に成立した二つの注釈書(「伝」)があって、合せて「春秋三伝」と申します。あとの二伝は「左氏伝」とはまったく違ったスタイルの注釈書なので、「なるほど、こういうものなのか」と知ってもらうために、ご参考までに

僖公七年、夏、「鄭、その大夫申侯を殺す」

に対する両伝を掲げてみます。

公羊伝:其称国以殺何。称国以殺者、君殺大夫之辞也。

その国を称して以て殺すは何ぞや。国を称して以て殺すは、君の大夫を殺すの辞なり。

だれだれが、ではなく、「鄭」という国名を挙げて、「鄭が殺した」と書いたのは何故であろうか。国名を挙げて「国が殺した」と書くのは、その国の君主が臣下である大夫を殺したときの言い方なのである。

穀梁伝:称国以殺大夫、殺無罪也。

国を称して以て大夫を殺すは、無罪を殺すなり。

国名を挙げて「国が大夫を殺す」と書いたのは、死刑にするほどの罪が無いものを殺したからである。

この二伝はちょっと似てますよね。それもそのはずこの二伝は実は・・・、というお話はまたいつかの日の夜伽にいたすことにいたしましょう。明日は月曜日なのでもう寝なければ・・・。(どうせ今晩のうちに世界滅亡するから明日は起きなくてもいい、はずですが・・・)

 

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