平成25年9月2日(月)  目次へ  前回に戻る

 

疲れている。ビョウキかも知れぬ。 だが、この身がどうなろうとも、先覚者たるわたしは、人の道をみなさんに説き続けなければならない使命があるのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・

ということで、人間性のあふれるお話をしますよ。

なんと、冷血動物にも以下のようにあたたかい人間性があるのです。

(1)       仁魚

海中仁魚。

海中に仁魚あり。

海に「仁魚」(人間性のゆたかな魚)というのが棲息している。

「人魚」ではありません。

仁魚はニンゲンよりも大きく、そしてニンゲンのコドモたちと遊ぶのが好きでした。

あるとき、コドモを一人背中に乗せて岩場に登り、楽しませていましたが、そのうち

偶以鬐触傷児。

たまたま鬐を以て触れて児を傷つく。

ひょっとした拍子に背びれがそのコドモに当たってしまい、コドモはケガをしてしまった。

「痛いよう」

とコドモは運ばれて行ったが、その晩、その傷がもとで死んでしまったのであった。

これを聞いて、

魚不勝悲痛、亦触石死。

魚は悲痛に勝(た)えず、また石に触れて死す。

仁魚は悲しみと自責の念にたえることができず、自ら石に激突して死んだ。

なんという人間性のある魚でありましょうか。

(2)       義蟹

上海郊外の松江・幹山のひと・沈宗正は毎年晩秋になると、用水路の土手の間に竹製の網をわたし、それに引っかかった蟹を食べるのを楽しみにしていた。

ある日、その網に

見二三蟹相附而起。

二三蟹の相附して起つを見る。

二〜三匹のカニが引っ付きあったまま、その網の上に昇ろうとしているのを見かけた。

「一度に何匹か捕れそうじゃな」

と近づいて見るに、そこには

一蟹八腕皆脱、不能行。二蟹舁以過。

一蟹は八腕みな脱して行くあたわず。二蟹、舁(かつ)ぎて以て過ぎんとす。

三匹にカニがいた。そのうち一匹のカニには八本の脚が一つも無くなっており、歩くことができない。二匹のカニがそれをカゴを担ぐように持ち上げて、網を乗り越えようとしていたのだ。

沈はその姿を見ているうちに彼らの義の篤いのに涙ぐみ、すぐに網を外してやって、以後、

終身不復食蟹。

終身また蟹を食らわず。

死ぬまで二度とカニは食わなかった。

なんという人間性のあるカニではありませんか。

(3)       徳鼈

黄徳瓊というひとの家で、鼈(すっぽん)を蒸し焼きにした。釜にスッポンを入れ、竹の蓋をしめて下から火を燃やしたのである。

十分蒸したと思って蓋を外し、すっぽんを取り出したところ、

背皆蒸爛、然頭足猶能伸縮。

背はみな蒸爛するも、然れども頭足はなおよく伸縮す。

甲羅は蒸されて爛れているのだが、頭や足はまだ生きて出し入れしていたのである。

「ああ、こんなにされても生きようとしているのだ・・・」

徳瓊はこれをみて慈くしみの心を起こし、裏の川に逃がしてやった。

その後、徳瓊は熱病に罹り、家族からも見放されて河原に小屋を建てて死を迎えるばかりとなっていた。

ある晩、

有一物徐徐上身、覚甚冷。

一物の徐徐に身に上る有りて、甚だ冷なるを覚ゆ。

何かが腹の上にゆっくりと昇ってきたのを感じた。それはたいへん冷たかった。

あまりに冷たくて、身体中の熱が吸い取られるようであった。

及曙能視、胸臆悉塗淤泥。其鼈在土間、三曳三顧而去。

曙に及びてよく視るに、胸臆ことごとく淤泥に塗る。その鼈土間に在りて、三たび曳き、三たび顧みて去れり。

明け方日がさしてくると、胸も腹も泥だらけになっているのが見えるようになった。土間を見ると、甲羅の爛れたいつかのすっぽんがいて、これが三回泥の中に入って三回徳瓊の体に上り、泥によって体の熱を冷ましてくれていたのだ。

すっぽんは三回泥を塗りつけるとどこかに去って行った。

即日病瘥。

即日、病い瘥(い)ゆ。

その日のうちに、徳瓊の病は治ってしまったのである。

おお、なんという人間性にあふれ、ものすごく治癒能力まで持ったすばらしいすっぽんではありませんか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

王言(どの時代のひとか定かではないが、とりあえず明代のひとと推定する)という人がドウブツの方が人間性に満ち溢れていることを証そうとして記した「聖師録」という本に書いてあることだそうです。清・新安の張潮、字・山来(→「幽夢影」の著者)が編集した古今の奇談小説集である「虞初新志」巻十八所収。

冷血動物に豊かな人間性があることがわかってまいりましたでしょう。冷血どもでもこうなのに、ニンゲンであるはずのあなたはどうなのか。クジラやイルカの追い込み漁をして生計を立てている同じ人間を冷たく批判したりしてるんじゃないの?

 

表紙へ  次へ