平成25年7月16日(火)  目次へ  前回に戻る

 

しごとで相当消耗しております。こんな感じでは、あとひと月ももたないかも・・・。

ところで、この間、とある有力者から「近代のチュウゴクのひとは日本をどう観ていたのかな?」と問われまして、「むにゃむにゃ」と答えました。近代の立派な人の書物なんて読んだことがなかったので。

しかし、よくよく慮りみると、下の文章などはそれに該たるかも知れん、と思いまして、訳出してみます。

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・・・わたしが在英中に、日本の兵船がはじめて英国に到達した、ということがあった。

泊于代模司江下流之格林僖司。

代模司江下流の格林僖司に泊せり。

テームズ川の河口近くにあるコリンキスに停泊したということであった。

日本の駐英公使・上野景範がその船上で茶会を催すというので、6月27日に、わたしと徳在初、葉桐侯で行ってみた。

船に乗るとき、上野公使とその令夫人、及び船長の挨廬野(あいろや?)の三人がタラップで客人たちを握手して出迎えてくれた。

船の周囲はぐるりと花を飾り、甲板には絨毯を敷きつめ、艦尾の方に筵を敷いて酒や菓子を並べてあった。楽師たちが乗り込んでいて、船の第二甲板で音楽を奏でていた。

船の長さは十六〜十七丈(50メートルぐらい)、幅は二丈三尺(7メートル)、喫水線の下は一丈足らず、甲板は三層になっておって、真ん中が食堂、応接室、士官・兵士らの寝室だ、ということであった。

船頭懸白方旗、有径二尺許大円紅心。

船頭に白方旗を懸け、径二尺ばかりの大いなる円き紅心あり。

船首には白い四角の旗がかかっていたが、その真ん中には直径二尺ぐらいの大きな赤丸が描かれていた。

この旗は、

蓋其国以日為旗志。

けだし、その国、日を以て旗志と為すなり。

その国が太陽を旗じるしに使っているためだ、ということであった。

このほか、船尾の方の舷側に「清輝」と隷書で書かれていたが、これは船の名前で、日本語では「腮給」(さいきゅう?)と発音するとのこと。

水手百余人、亦如英兵結束、見客至皆挙手倚額示敬。

水手百余人、また英兵の如く結束し、客の至るを見ればみな挙手して額に倚りて敬を示す。

乗組員は百人余りということ、イギリス軍の兵士のようによく鍛えられていて、客が来るたびに手をひたいのところまで斜めに挙げて敬礼を行った。

船には前に一門、左右に各二門、合せて五門の銅製の大砲が備え付けられていたが、それらをはじめ機械類は

磨洗精潔、不亜西人。

磨き洗いて精潔にして、西人に亜せず。

ぴかぴかに磨きあげて寸分の狂いもなくきれいにしており、このあたり、西洋人と同等以上といっても差し支えない。

「亜」は「次ぐ」。「それ以下」であることを表わす。「不亜」は「それ以下ではない」すなわち「同等以上だ」ということです。

ああ。

日本国小、而能争勝若此、未可量也。

日本国小なれども、よく争い勝つことかくのごとく、いまだ量るべからざるなり。

日本国は小さい国であるが、負けん気を出してこんなにしっかりやっているので、今後の発展については予想もつかない。

この日、茶会に来た者は約200人ということであったが、威妥瑪(ウェダバ)や前の広東領事の羅伯遜といった知清派のイギリス人もいた。

帰り際、威妥瑪としばらく同行したが、

威妥瑪語余、願貴国将来造一大船、前来弊国。答云、予亦盼望如是。

威妥瑪余に語るに、「願わくば貴国、将来に一大船を造りて、弊国に前来せんことを」と。答えて云う、「予もまた盼望すること、かくのごとし」と。

ウェダバがわたしに言うには、

「あなたの国でもはやく巨大な船をお造りになって、我が国まで航海して来れるとよろしうございますね」

と。

わたしは答えた、

「わたしもそのことを強く希望いたします」

と。

復行数十武而別。

また行くこと数十武にして別る。

その後、二人とも無言のままで数十歩あるいたところで、別れたのであった。

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これは1876年かその直後ごろのことと思われます。西南戦争の直前かな。日清戦争(1894〜95)なんかまだ遠い将来のこと、日も清も夢中で勉強している(清の方で勉強しているのは洋務派だけですが)ころですね。

この文章は清末の外交家・古典学者・文人の黎庶昌「西洋雑志」巻三より。

黎庶昌は道光十七年(1837)、貴州遵義の生まれ、同治元年(1862)に政治の在り方を論じた上書をたてまつって天下の知るところとなり、曾国藩の知己を得て「曾門四弟子」の一と称せらる。後、1876〜1880にかけて在イギリス・フランス・スペイン各国の清国公使附参事官を務め、この間の見聞をまとめたのが「西洋雑志」である。

なお、黎庶昌はその後、光緒七年(1881)から四年、光緒十三年(1887)から三年、駐日公使館にあって、多くの日本官民と交わりを結んでいる(「游日光山記」は当時の内外に喧伝せられた名文であるよし)。特にこの間、本国においてはすでに散逸した書物で日本にあるものを丹念に集め、「古逸叢書」二百巻を出版、その校訂の正確さ、印刷の精美によりチュウゴクの学界・印刷界に多大の影響を与えた。

同二十二年(1896)、惜しいかな、卒した。

※なお、軍艦「清輝」については、某O本全勝氏からの御教示があったので、明日記述を参照のこと。

 

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