平成25年6月10日(月)  目次へ  前回に戻る

 

尾張・中村邑に銀杏の樹多く、ためにこの村は銀杏村とも呼ばれたそうな。

享禄・天文のあわいのころ、村に弥助なる者あり、子が無かった。その妻とともにおてんとうさまに禱り、妻、日がふところに入る夢を見てみごもった。かくて月日満ち、天文五年(1536)正月元旦に一人の男の子が生まれたのであった。

この子、八歳の時、父の弥助が死に、その母はその村人の間に寄食するようになったが、いずれ貧しいひとびとである。村人ら相謀り、村にあった筑阿彌なる者、国守の臣卒であったが負傷して農民となっていたのが独り者であったので、これに娶せた。さらに一男一女を生む。先の子は食べさせていくことができず、これを村外れの光明寺に預け、坊主にでもしようということになった。

このとき、この子思えらく、

僧乞丐徒耳。大丈夫生於乱世、安学乞丐為。

僧は乞丐の徒のみ。大丈夫の乱世に生まれて、いずくんぞ乞丐を学ぶを為さんや。

僧というのは人に食を乞う、要するに乞食の仲間じゃ。立派なおとこが今のような乱れた世に生まれて、どうして乞食になる方法を学んだりしなければならんのか。

と言いまして、やがて寺を飛び出していくのでございました。このコドモ、

時甫十歳。

時に甫(はじ)めて十歳。

このときようやく数えで十歳であった。

という、このコドモこそ日吉丸、後の豊臣秀吉であった。

・・・・・・と、広島びと頼山陽「日本外史」巻十五に書いてあった。

十歳のこどもがそんなこと言うかよ、と思いましたが、江戸時代のひとに文句を言ってもしようがないのでそのまま受け止めて読みましょう。

結論。

外史氏曰、嗚呼。使太閤生於女真靺鞨間、而仮之以年、則烏知覆朱明之国者、不待覚羅氏哉。

外史氏曰く、嗚呼。太閤をして女真・靺鞨の間に生ぜしめ、而してこれに仮すに年を以てせば、すなわちいずくんぞ知らん、朱明の国を覆すは、覚羅氏を待たざるやを。

民間の歴史家・わたくし頼山陽が思うに、

ああ。                                                                                                                                       

太閤・秀吉が満州から沿海州にかけての地域に生まれ、十分な寿命を持っていたとしたら、どうであったろうか。

朱氏の明帝国を滅ぼしてチュウゴクを統一するのは、(1640年代の)満州族・愛新覚羅(えじょんぎょろ)氏(清の皇帝の姓)を待つ必要はなかった、すなわち秀吉が(1600年ごろに)それを成し遂げていたのではないだろうか。

だそうです。(「日本外史」巻十七

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昨日・今日つらいしごとであった。宮仕えというのは畢竟、乞丐の徒のようにも思うのである。

 

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