平成25年1月6日(日)  目次へ  前回に戻る

 

今年も年賀状というものを出さないうちに一年が過ぎて行きました。「虚礼廃止というが年賀状は虚礼ではないのだ」というひともあるが、わしは別に虚礼だから廃止したのではなくニンゲン関係が無いので廃止されているのである。

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魯鐸は明のひと、学問に優れたひととであったが豊かではなかった。

ある日、若いころからの学友である類庵先生・趙永(字・司成、北京の人)が魯邸を訪れ、

「さあ、行こうではないか」

と誘うのであった。

魯曰く、

「おまえさん、どこに行こうというのかね」

趙はあきれたように答えた、

「おいおい、

今日為西涯先生誕辰、将往寿也。

今日、西涯先生の誕辰なり、まさに往きて寿(ことほ)がんとす。

今日は李西涯先生の誕生日ではないか。これからお宅にお邪魔して、長寿のお祝いを申し上げようと思うのだが」

二人の共通の師である李西涯先生の誕生日だったのである。

魯、いまさらながらそのことに気づいて身支度をしながら、ふと気になって趙に問うた。

「師匠のところにお祝いに行くのに手ぶらというのはどうなのじゃろう。

公何以為贄。

公、何を以て贄(し)と為すや。

おまえさんは、何か手土産を用意しているのかな?」

趙は当たり前のように頷き、

帛二方。

帛、二方なり。

「反物を二枚、持っていく」

という。

魯、慌てて、

吾贄亦応如之。

吾が贄またまさにかくの如し。

「わ、わしも同じものを持っていくことにしよう・・・」

と衣裳箱を開いてみたが・・・。

何も入っていない。

躊躇良久、憶里中曾饋有枯魚、令家人取之。

躊躇することやや久しく、里中かつて饋(おく)りて枯魚有るを憶(おも)い、家人をしてこれを取らしむ。

しばらく立ち往生していたが、「そういえば・・・」と近所の人から以前、開きの干し魚を贈ってもらったのがあったことを思い出し、女房に

「あれを持って来い」

と命じた。

「はあ・・・」

家人報已食、僅存其半。

家人報ずるにすでに食し、わずかにその半を存するのみ。

女房が答えるには、

「もう食べてしまいましたよ。開きの片側だけまだ残っていますけど・・・」

魯は悩んだが、家にはほかに何も持っていけそうなものがない。

「わかった、それを持って来い」

即以其半与趙倶往称祝。

即ちその半を以て、趙とともに往きて祝を称す。

そこでその開きの半分を持って、趙といっしょに西涯先生の家に行ってお祝い事を申し上げたのであった。

西涯先生はたいへんお喜びになり、

烹魚沽酒以飲二公。

魚を烹(に)、酒を沽(か)いて以て二公と飲む。

その半分の干し魚を煮させ、酒を買いに行かせて、二人と酌み交わした。

ということであった。

ああ。

「論語」を読むと、孔子は

自行束脩以上、吾未嘗無誨焉。

自ら束脩を行う以上には、吾、いまだ嘗て誨(おし)うる無くんばあらず。

わしは束脩(そくしゅう)さえ持って来たやつには、(弟子として)教え無かったことはない。

とおっしゃっておられる。(述而第七

ゆえに後世、授業料のことを「束脩」というが、もとは「脩」(しゅう)とは乾し肉のことであり、これを薄く裂いて長く伸ばしたもの(あわびの「熨斗」のようなものであろう)を十枚づつ束ねたのを「束脩」といったのである。

若枯魚而止半、太不成文矣。

枯魚にしてただ半ばに止まるがごときは、はなはだ文を成さざらん。

(「束脩」にさえ足らぬ)干し魚のしかも半分だけ、というのでは、なかなか入門できなかったのではないだろうか。

そう思うと西涯先生は立派なものである。

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明・馮夢龍「古今譚概」巻十三より。誠意があれば礼にかなわずともよいのである。ただしわしはニンゲン関係が無いのであって誠意も何も関係無いのである。

なお、「束脩」については上記のが通説ですが、「髪を束ね、身を脩(おさ)める」ことであり、それ「以上」というのは十五歳以上の成年のことを指すのだ、という有力説(後漢の鄭玄ら)があります。本文とは関係ないのですが、念のため。

 

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