平成25年1月4日(金)  目次へ  前回に戻る

 

うわあ。もう四日でちゅう。し、しごとが・・・。

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「時の過ぐるは速いものじゃ」

と先生はおっしゃった。

さらに言う、

―――むかし、時を測るに水を以てしたころ、この水時計(「漏刻」)には時を知らせる人形がついていた。人形は流れる水によって動かされた歯車によって動き、ある刻限にちょうど彼の軌跡の頂点まで昇り、そこに取り付けられた鐘を叩く仕組みであった。(諏訪だかどこかに漏刻の実物が復元されていた記憶があるが、いずこであったか。後でウィキペディアで調べてみまちゅる)

漏刻之人、受命於水。水涸則降。

漏刻の人は水に命を受く。水涸るればすなわち降る。

水時計についている人は、水に生かされているのである。水が無くなれば動くこともできず低い位置に止まったままだ。

今度は「回り灯籠」(「影燈」)を思い出してください。回り灯籠は灯影のまわりに画像を回らせることによって、移動する影絵を映し出す。

影燈之人、受命於火。火熄則止。

影燈の人は火に命を受く。火熄(や)めばすなわち止まる。

回り灯籠に映し出される人は、火に生かされているのである。火が消えれば動くこともできずじっと止まったままだ。

ああ、いずれも

其昇降動止有制之者也。

その昇降・動止のこれを制する者有ればなり。

彼らの昇ったり下ったり動いたり止まったり、について、これらをコントロールするモノ(水と火)があるのだ。

―――自分で自分の生き方を判断できないやつらはダメですなあ。

―――わはははは。

―――おほほほほ。

と、今、みなさん笑いませんでしたかな?

ところが、

人之在声華勢利亦然、得則神王、失則気汨。

人の声・華・勢・利にありてもまた然り、得ればすなわち神王にして失えばすなわち気汨す。

われらニンゲンの名声、繁華、勢力、利益といったものについても同じではございませんか。これらも外部のものであるのに、これらを得た者は己れを神とも王者とも思い高ぶり、失った者は気力も萎えてしまうではないか。

おやおや、ニンゲンも人形たちとおんなじで、

制在外也。

制は外に在るなり。

外にコントロールするモノがあるのですなあ。

けっけっけっけ。

ああ、可笑しい。

惟立命在我而不為外物所制、幾於道矣。

これ立命我にありて外物の制するところと為らざるは、道に幾(ちか)いかな。

自分の中に自分に命を与えるものがあり、外のものにコントロールされているのではない、という人だけが、もうこれはほとんど「道」に近いところにいる、というべきでありましょう。

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明・于慎行「穀山筆麈」巻十六より。

新年早々、于先生のイヤミでございましたよ。しかし、それもこれもみなさんに早く真実に気付いていただきたい、という親心でございます。

わたしも「四日」と聞いて、「わ、しごと始めだ!」とびっくりしてしまうところでした。しかし、大丈夫。わたしは今年から外のものにコントロールされることはもうありません。すぐに「まあいいや。もう仕事行かないんだし」と思い直しました。もう叱られたりするのイヤだし。

 

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