平成24年12月5日(水)  目次へ  前回に戻る

 

うちゅでちゅ・・・。・・・昨日の更新とか読み直すと、別人のようにハイすぎる・・・。

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ニンゲンはイヤです。

明の時代のこと。

江蘇・呉県に昇日南なる僧あり。

善画水仙、兼善音律。

よく水仙を画き、兼ねて音律を善くす。

水仙の画がうまく、また音楽に詳しかった。

というので、風雅な才能があったことが知られる。

永楽年間(1403〜24)には、南京で仏教音楽の演奏をして評判が高かった。しかし、その生活は

犬馬魚鱉之肉無弗食、俳優妓女之家無弗遊。

犬・馬・魚・鱉の肉、食らわざるなく、俳優・妓女の家に遊ばざる無し。

イヌとかウマとかウオ・スッポンの類の肉を食いまくり、劇団の俳優、遊郭の妓女などのところに入りびたりであった。

破戒である。ちなみに、俳優は芸も見せますが、酒色の場を設けホモセクシャルの相手もしたりするのである。

こんな生活で、

長髪為浪子者数年。

髪を長じて浪子となること数年なり。

僧籍に身を置いたまま髪を伸ばし、遊び人となって長いこと暮らしていた。

その後、年老いてまた髪を剃り、呉県に戻ってきて水仙の画を描いて暮らしていた。一時期は尊貴な方々の間でも名が売れていたのだが、徐々に画も描けなくなり、乞食のような生活に堕ちて行ったのである。

その日南は、ある日、突然わし(←肝冷斎にあらず。著者の王リさんなり。王さんは昇日南と同郷で宣徳八年(1433)の生まれであるから、日南より40歳ぐらい若いであろう)の家に現れたことがあった。

その日は臘月(←12月)八日、いわゆる「臘八」の節日にあたり、わしの家は

挙家茹素。

家を挙げて茹素す。

家中、精進料理を作っていた。

なのに、日南は、

痛索酒肉不已。与飲食之而去。

酒肉を痛索して已まず。これに飲食を与えて去らしむ。

酒と肉を強く求めて立ち去ろうとしない。しかたないので(取り置きの)酒と肉類をわたして追い返した。

この時、彼はもう八十いくつであったはず。

しばらくして病を得、手足も不自由で垂れ流しの状態になったということだが、なかなか死ななかった。

すると、彼が画を売って稼いだ金に寄生していた無頼の仲間たちは、日南を

鐍於一室、以飯為団、自穴中抛与。

一室に鐍(けつ)し、飯を以て団と無し、穴中より抛(な)げ与う。

一室に閉じ込め、食べ物を欲しがると、メシを握り丸めて孔から放り込んでやるのであった。

「鐍」(ケツ)は「かんぬき」。ここでは動詞に用いてかんぬきをかけて扉を閉ざすこと。

日南はこの「にぎりメシ」を得ると、

必用手和糞而食。

必ず手を用いて糞と和して食らう。

かならず手で汚物と混ぜ合わせてから、うまそうに食らう。

ということであった。

そのような部屋の中で、

披髪数寸、儼若一獣、終餓而死。

披髪して数寸、儼として一獣のごとく、ついに餓えて死す。

髪をぼうぼうに伸ばして数寸になり、まったくケダモノのようなようすで、最後は栄養失調で死んだのであった。

ひとびと、

信果報也。

まことに果報なり。

「若いころの因果がめぐったのじゃよ・・・」

と噂しあった。

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自然主義文学ですね。ああ。イヤになります。ニンゲンには。絶望。しごと。嘲笑。あいつら。楽になるには? この世から逃げ出すしか・・・。王リ字・元禹、葦庵処士、夢蘇道人と号す)「寓園雑記」巻十より(←23年10月以来の登場)。

しかしながら年八十を越えて髪の毛が数寸伸びるとは、うらやましがるひともいるカモ。

 

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