平成24年11月13日(火)  目次へ  前回に戻る

 

豆腐ちゃんぷるー。

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南宋末の咸淳年間(1265〜74)、吉州・龍泉県(今の江西・吉安なり)に豆腐売りの王という老人がおったんじゃ。

王老者年八十有六、平生樸素不識字。

王老は年八十有六、平生、樸素にして字を識らず。

王老人は齢八十六歳、ふだんは伐ったばかりの木、染めていない糸のような素朴なひとで、文字の読み書きもできなかった。

ある日、突然、息子に

欲帰。

帰せんと欲す。

「わしは、そろそろ死ぬるわ」

と言い、

「ついては、これを文字に書いてくれ」

と、「豆腐詩」なるうたを歌いはじめた。

朝朝只与磨為親、  朝な朝なにただともに磨して親しきと為し、

推転無邊大法輪。  推転す無邊の大法輪。

碾出一団真白玉、  碾(ひ)き出だす一団の真白玉、

将帰回向未来人。  まさに帰して回向せん、未だ来らざるの人に。

 毎朝、毎朝、(豆を)磨り潰してきたので親しいものになったのだが、

 わしが押し転がしてきたのは、(ただの臼ではなく)無限の巨大な宇宙の秘密の輪であった。

 そこから潰されて出てくるまるい真っ白なタマ、

 これを(五十六億七千万年後の)遠い未来に現れて衆生を救うお方に捧げることとせん。

「未来人」は(おそらく)弥勒如来のことであろう。

王老人はそう歌い、

言訖坐化。

言訖(おわ)るに坐して化す。

歌い終わった―――とみるに、すでに座ったまま死んでいた。

「おっ父(と)う!」

たとえ息子が呼びかけてももう答えぬ。

はてさてこの老人、どこまで世界の秘密を理解していたのか。あるいはいつから理解していたのか。

詩意亦有味也。

詩意もまた味わい有り。

この「豆腐の詩」、読めばまた儚くも淡くて深い味わいがあるではないか。

まことに豆腐を味わうごとし。

なお、この後数年にして吉州の地は元の軍勢の前に落ちた。この地から出てゲリラ戦を指導し、元を悩ましたのが忠臣・文天祥である。

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元・劉壎「隠居通議」巻十より。

豆腐之術、三代前後未聞此物、至漢淮南王安始伝其術于世。

豆腐の術は三代前後いまだこの物を聞かず、漢・淮南王劉安に至りて始めてその術を世に伝う。

豆腐の製作法は、夏・殷・周の古代にはまだそれがあったとの記録が無い。前漢の劉安がはじめてその製法を世の中に広めたのである。

そうである(「格致鏡原」巻二十五所引「謝綽拾遺」)。

「本草綱目」も同旨。劉安の製法は黒豆・黄豆・豌豆(えんどう)・緑豆(そらまめ)を原料としたとのこと。

「和漢三才図会」によれば、和名は「おかべ」、

按豆腐本朝古者無之。今為僧家日用之物。

按ずるに豆腐は本朝にいしにえはこれ無し。今、僧家日用の物と為す。

豆腐について考えてみるに、我が国にはむかしはこれは無かった。現代(江戸時代)では、お寺では日常的にこれを作っている。

として、大豆で作る方法を記す。宋代の寺院は生産技術の集積センターであったから、禅宗とともに製法が伝わったのである。

・・・・・勉強になりました。さあ、寝るか。

「いや、わしはもっとほかのことも知っているのじゃ」

と劉隠居はいろいろ話したいこともあるようですが、明日も朝起きないといけないのでわしはもう寝ます。

 

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