平成24年10月9日(火)  目次へ  前回に戻る

 

ちょっと飲酒してきたら頭が痛いんですわ。頭がとれてしまう前兆かも知れません。

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今日は日本語をやります。

上杉謙信のことである。

謙信、ある晩、石坂検校なる名人に「平家」を語らせた。検校、哀切きわまりなき声で、数段を語る。謙信は中でも巻四の「鵺」(ぬえ)の段を聞いて、しきりに涙を落としていた。

「鵺」の段というのは、夜な夜な内裏に現れる「鵺」(正確には「鵺のようなもの」)を退治する、源三位頼政の武勇談です。

・・・・・・・・・東三条の森の方より一団の黒雲が立ち来たって、御殿の上にたなびいた。頼政、きっ、と見上げたれば、雲の中に怪しき物の姿あり。

「これを射損じたら、おれはもうこの世界では生きていけまい」

と思いながら、矢を取りつがえて、

南無八幡大菩薩!

と心の内に祈念して、よつ引いてひやう、と射る。

どん、何物かに矢の当たる音がして、何かが落ちてきた。

腹心の遠江の住人・井早太(いのはやた。井氏は後の井伊氏である)、

つつと寄り、落つるところを取つて押さへて、続けざまに九刀ぞ刺(つらぬ)いたりける。

その時、上下、手んでに火を灯(とも)いてこれを御覧(ごろう)じ見たまふに、頭は猿、体は貍、尾は蛇、手足は虎の姿なり。鳴く声鵺にぞ似たりける。恐ろしなんどもおろかなり。

主上、御感のあまりに、師子王といふ御剣を下されけり。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

というお話でございます。

さて、謙信はこの話を聞いて落涙したのである。

近侍の者たちは不思議に思った。

「おやかたさま、ここは頼政の武勇のほまれを上げ、主上にお褒めをいただくアッパレなる段にございます。こころウキウキこそすれ、涙を落とす段にございましょうか」

謙信、それを聞いて、あきれたように言うた。

昔、鳥羽院の御時、禁中に妖怪ありしに、八幡太郎鳴弦して鎮守府将軍源義家と名のりければ、妖、たちまち消えぬといへり。その後、頼政鵺を射たれども猶死せずして、井の早太刺し殺してとどめたりと聞こゆ。義家鳴弦せしは天仁元年の事なり。鵺の出でしは近衛院仁平三年なれば、わずかに四十六年なるに、武徳すでにおとれる事はるかなり。

「それより以前に鳥羽天皇の御代、内裏に妖怪が出たときは、八幡太郎・源義家が、弓の弦を鳴らして

「わしは鎮守府将軍の源義家じゃ」

と名乗りを上げただけで、妖怪はたちまち消えてしまった、ということである。

頼政は、鵺を弓で実際に射て、確かに射ぬいたのだが、それでも鵺は死ななかった。井の早太が駆け寄って、刺殺してとどめをさしたというのである。

義家が弓を鳴らしたのは天仁元年(1108)のことじゃ。鵺が出たのは近衛天皇の仁平三年(1153)じゃ。わずかに(足かけ)46年。この間に、武徳(武のちから)はこんなに衰えてしまった、ということだ。

また今、頼政におくるる事、四百五十年、われまた頼政に劣る事遠かるべければ、おぼえず涙の流るるよ。

現代は、頼政が鵺を射てからさらに450年ぐらい後である(実際には420〜430年)。わしの能力も頼政にはるかに劣る。鵺が出たところでそれを射落とすなどということ、わしには出来ぬであろう。それを考えると、思わず涙が流れ出てしまったのだ。

おまえたちは、そんなふうには思わないのか?」

う〜ん、なるほど。

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「常山紀談」巻一より。これが「いくさ人」(「花の慶次」参照)のモノの考え方なのであろう。

なお、「頭は猿、体は狸、尾は蛇、手足は虎」というこの妖怪の姿を想像してみると、下の図1のようになる。確かに「恐ろしなんどもおろかなり」というぐらい、コワそうである。

説明: C:\Users\hfukui1\Documents\きもひえ1\DSC241009nue.jpg←図1

 

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