平成24年2月19日(日)  目次へ  前回に戻る

 

一昨日于武陵の出身地を「杜曲」とだけ書いて何の解説もしませなんだ。めんどくさかったからなのですが、唐史においてはそこそこ有名な地名なので解説しておきまちゅ。

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唐の京城、すなわち長安城の南に韋氏と杜氏の二つの氏族が多く住む地域があり、それぞれ

謂之韋曲、杜曲。

これを韋曲、杜曲と謂えり。

「韋さん横丁」、「杜さん横丁」と呼ばれていた。

のだそうでございます。そして、ひとびとは言うた(「三秦記」による)、

城南韋杜、去天尺五。

城南の韋・杜、天を去ること尺五なり。

城南の韋曲と杜曲に住む韋氏、杜氏は、天上から一尺五寸しか離れておらぬ。

と。これは「天」(京城)に極めて近いところに住んでいる、という意味である。

後に日本國で、戦国の梟雄・松永弾正久秀の孫・松永昌三が儒を修め、京都の御所の近くに私塾・講習堂を開き、「尺五」(せきご)と号したのはこれに基づくのであります。

―――さて、この韋曲・杜曲でございますが、唐史において「そこそこ有名」になったのは何故か。

「韋曲」に住んだ韋氏の名前をじいーっとご覧ください。そうすると、・・・ほら、気づきましたでしょう?

韋氏は、則天武后の簒奪の後を継いで立った中宗の皇后を出した家柄でございます。則天武后のとき、その一族の武氏が重用されましたように、韋皇后時代にも外戚の韋氏が多く取り立てられました。特に有名なのは、左僕射(宰相)となった韋巨源でございましょう。そして、韋皇后はこの外戚の勢力を背景に、宗室の安楽公主、後宮に強大な権限を持つ上官昭容、内将軍(宮内に置かれた女性軍人)・賀婁氏らと結んで武后が行ったように専制を敷かんとして、着々と政敵を除きつつあった。

外戚となった韋氏の勢力は増大し、このため、

侵杜曲而居之。

杜曲を侵してこれに居る。

杜氏の住む「杜さん横丁」にまで進出して、その地にも住み着いていた。

のであった。

景龍三年六月、中宗崩御。長安の人民ら口伝てにいう、韋皇后に弑せられたり、と。

後を継いで即位したのは韋皇后の子・殤帝であります。そして、韋皇后は、これを機に、最大の政敵、中宗の弟に当たる相王・李旦(武周時代に一時帝位にもあった)と姉に当たる太平公主を除かんと謀ったといわれます。しかし、相王の第三子で、「快活三郎」と呼ばれて宮中や軍人に人気のあった青年皇族が、劉幽求、葛福順、李仙鳧、崔日用ら、禁軍の将士らと結んで兵を起こし、皇后を始め韋氏一族を果断に誅殺してしまった。

玄武門から将士らが乱入したとき、韋皇后は恐慌して自らを支持するはずの飛騎将軍の陣営に逃げ込んだが、飛騎将軍はあいにくと留守で、逆に飛騎営の兵士らに斬殺されてしまったと申します。

安楽公主はまさに鏡におのれを照らして眉を描いていたところであったがそのまま斬られた。斬首された首が「快活三郎」の本営に持ち込まれたが、美しく化粧されて唇紅く頬染まりまなじり凄く、さすがの勇士らも直視することができなかったという。

内将軍・賀婁氏は大極殿の西で正面から額を割られて殺された。さすがに勇武を以て謳われた女軍人、逃げようという素振りも見せなかったという。

上官昭容は中宗の崩御の後、韋皇后と隙あり、相王を推して大尉と為すなどの行動も起こしていたことから自ら赦されるべしと考えて自ら燭を執って三郎を出迎えた。劉幽求は昭容の政治的立場に変化のあったことを理解していたから、三郎に彼女をとりなしたが、三郎許さず、

斬於旗下。

旗下に斬る。

本営において斬殺した。

左僕射・韋巨源は家にあって騒ぎを聞いた。家人ら逃亡せんことを勧めたが、

吾位大臣、豈可聞難不赴。

吾、大臣に位す、あに難を聞きて赴かざるべけんや。

「わしは大臣の位をいただいておる。どうして国家の混乱を聴いてそれを鎮めに行かないでおられようか」

と言うて単身宮城に赴き、途上、

為乱兵所殺、時年八十。

乱兵の殺すところとなる。時に年八十。

混乱の中で兵士に殺された。このとき八十歳であった。

このほか、韋温、宗楚客、趙覆温ら韋氏の党派はほぼ殺し尽くされた。

このクーデタの指揮を執った「快活三郎」こそ、誰あろう、後の開元の名君にして天宝の暗君、玄宗皇帝・李隆基であります(→参考)。・・・背後で糸をぐりぐりと引いていたのは則天武后の長女で、武后に「その性、朕に最も似る」と言わしめた希代の策謀家・太平公主であろうこと、誤まりございますまいが・・・。

――――で、韋曲・杜曲のことです。韋氏は韋曲にはもちろん、杜曲にも多く居住しておったわけですが、クーデタの日、羽林の将のひとり

崔日用将兵誅諸韋於杜曲。

崔日用、兵を将いて諸韋を杜曲に誅す。

崔日用は、一隊を率いて「杜さん横丁」において韋氏の残党を誅滅した。

このため

諸杜濫死非一。

諸杜の濫死するもの一にあらざりき。

杜氏の一族で、巻き込まれて理由もなく死んだものがかなり出たのであった。

ということでございます。

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以上、「資治通鑑」巻209より。

ちなみに景龍三年は西暦710年、ナントきれいな平城京、の遷都の年でございます。遷都クン、キモチ悪い。そうだ奈良行こう。

でもお水取り前の奈良は寒いですから、止めておきました。代わりに今日は葛西の地下鉄博物館に行ってきた。それから船堀の富士(明治25年建造)や乾海苔業の碑(明治30年)など見てから船堀タワーに昇る。360度見えた。コワかった。思わず「なまんだぶなまんだぶ」と声に出してしまい、近くの子どもに睨まれた。

ちなみに現在亡命準備中。誰も引き留めないのかな?

 

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