平成24年2月12日(木)  目次へ  前回に戻る

 

今日、受信機が鳴った。

ピーピー・・・肝冷斎よ・・・

「どちらさまですかな」

ピーピー・・・肝冷斎よ、吾は・・・なり・・・

「おお!」

わしは受信機のダイヤルをひねって感度を上げた。

「お久しぶりにござります、老師様」

「おまえも息災でなによりなり・・・。ところで、この二日ほど更新をしていないようだが、いかにネタ切れしても、あのことは口外無用ぞ・・・」

「これはしたり! この肝冷斎、ネタギレはありませぬし、あのことを口外するようなことがございましょうか」

「それでは安心じゃ。では、さらば・・・ピーピーピー」

―――と言われたのですが、「あのこと」につきまして、ほんの少しだけ、教えてあげましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

道可道、非常道。名可名、非常名。・・・@

というのは、「老子」の第一章、書き出しの有名な言葉でございます。

これを解するに、晩清の兪正爕は古来の注釈を踏まえて、

道名与他語道名異、此言道者言詞也、名者文字也。

道・名、他の「道・名」を語ると異なり、ここに言う「道」は「言詞」、「名」は「文字」なり。

「道」「名」の二文字、ほかのところで「道」とか「名」というときと異なり、ここでは「道」とは「ことば」、「名」とは「文字」のことである。

と注しております。

ただし、諸注とも、この「ことば」「文字」と解すべき「道」「名」はそれぞれ二文字めの「可」の後ろにある「道」と「名」だけで、一文字目と三文字目の「道」「名」はそれぞれ「みち、タオ」「指示できる何か、概念」という意味だと解しているようでございまして、一般には、@は、

道の道(い)うべきは常の道にあらず。名の名とすべきはつねの名にあらず。

変幻する「みち」を「ことば」にしてしまえば、もうそれは本来の「みち」ではなく、変化する「その何か」も「文字」として書いてしまえば、もう本来の「その何か」ではなくなりますのじゃ。

みたいな意味になるようなのでございますよ。

でも、ほんとにこんな意味なんでしょうか。

「道」とは、供犠されたドウブツ、あるいはヒトの「首」をランプのようにかざしながら、「道路」を祓い浄め、生身の人間が精霊たちにやられずに通れるようにすること、そうされた道路をいう。

「名」とは、供犠のための肉と容器から成り、生まれた子を何か月目かに宗廟(おたまや)に報告して、その子に名づけを行うこと、そうしてつけられた子どもの名前をいう。

ことを前提とすれば、(どちらも白川静先生の説ですが)

二文字目だけ突然「言詞」とか「文字」と解する、という必要が無いように思っております。

そうすると、「可」字のあとの二文字目の「道」と「名」は、それぞれ「道」と「名」の動詞化である「みちびく」「なづける」の意で十分亨るのではないだろうか。

道のみちびくべきはつねの道にあらず、名の名づくべきはつねの名にあらず。

○何かを行うための「やりかた、方法」(である「道」)を何かを行わせるために伝えると、なにごとにも適用できる「道」という未分化な知恵は分節された知識となってしまうのじゃ。

○(未分化な祖先霊・同族霊の一定の権能(はたらき)を指すための「なまえ」(である「名」)を生まれてきた一人の子の名前として名づけると、祖先霊から離れて、その子だけの名前となってしまうように、)物事を個別化・概念化すると原初のひとびとが持っていた共同のこころはバラバラになってしまうのじゃ。

・・・みたいな試訳をしてみました。

「古典」には、自由訳、という方法が許されるらしいので、これぐらいの想像訳ならもっと許されるのではないでしょうかな。

そこで、これぐらいの想像訳で第一章の全体を訳してみると、

道可道、非常道。名可名、非常名。無名、天地始、有名、万物母。常無欲観其妙、常有欲観其徼。此両者同出而異名。同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門。

道のみちびくべきは常の道にあらず。名の名づくべきは常の名にあらず。名無きは天地の始め、名有るは万物の母なり。常無はその妙なるを観んとし、常有はその徼(きょう)なるを観んとす。この両者は同じく出でて名を異にす。同じくこれを玄と謂い、玄のまた玄なるは衆妙の門なり。

変幻窮まりない世界に対応していくには、未分化な知恵である「道」があるのだが、これを分節して何か一定のことに対応する方法として伝えてしまうと、もう未分化な知恵ではなくなってしまう。

世界には大いなる広がりがあったのだが、それぞれの事物に「名前」を与えていくことで、それは全体的なものではなくなってしまう。

名前を持たないものは、世界の始まりと同じときからある未分化なものだが、名前を持つことによってはじめてすべてのモノを生み出す力とはなったのじゃ。

何も無いところには、見えないはたらきを見出すがよく、何かがあるところにはその見えるものを認識するがよい。

見えないはたらきと見えるものとは、同じところから出てくるのだが、その名前(権能)が違うのじゃ。

こいつらが出てきた「同じところ」、それは「黒いところ」である。黒い黒いところ、それはすべてのはたらきが始まるところ。

その「黒いところ」とはアレなんですよ―――

と言いかけて、はた、と思い出した。これを言うと老師に怒らるんですよ。

 

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