平成24年1月15日(日)  目次へ  前回に戻る

 

さっき畏友YAのところに寄ったら、李朝ドラマ「トンイ」というのをやっていた。これに感じて李朝・粛宗時代のことを記す。

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粛宗の十五年(1689)に、いわゆる「己巳換局」の政変があり、安東金氏の多くに死を賜った。このときわずかに七つであった金祟謙、以降出仕することを諦め、学問と詩作に打ち込むことにしたのだそうである。

十五か六のとき、字を君山とし、復庵と号した。易にいう「復は天地の心をみる」の意であろう。

親族から、あまり詩作に耽ることを戒められたとき、彼が答えて言うた言葉は、当時文化人たちに喧伝せられた。

詩之于人、正如貌之不能廃眉。

詩の人における、まさに貌(かお)の眉を廃するあたわざるが如きなり。

「人格に対する詩の関係は、ちょうど人の顔の中の(意志や感情をあらわにする)眉のようなものです。それを取り除いてしまって、人間が成り立ちますか?」

と。

十七八のころ彼の詩句に

時危百慮聴江声。

時危うく百慮江声を聴く。

ぼくらは危うい時代にいる。悩み疲れた夜半に届くのは、ほら。遠く、川のせせらぎ。

というのがあった。

シナや日本にも聞こえた柳下先生・洪世泰(※)はそのころもう老境に達していたが、

方食聞此句失箸。

まさに食らわんとして、この句を聞きて箸を失う。

めしを食っているときに誰かがこの句を吟じるのを聞いて、思わず箸を取り落したという。

そして言うた。

其詩蒼老太早、且過于悲傷。

その詩、蒼老たることはなはだ早く、かつ悲傷に過ぎたり。

「その詩は、深く、完成し過ぎている。そして、あまりに悲しみに過ぎている」

その作者が金祟謙であることを聞いて、老詩人は大変心配したということだ。

果遽夭。苗而不秀、惜哉。

果たしてにわかに夭(わかじ)にす。苗して秀でざる、惜しいかな。

はたして、いくばくもなくして夭逝した。若くして名をうたわれながら、成長しきる前に終わってしまったのだ。本当に惜しいことだ。

金祟謙、卒するの年は数えでようやく十九歳であった。

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李朝・任m「玄湖瑣談」(洪万宗編「詩話叢談」所収)より。

なお、洪世泰は粛宗の八年(1682。我が国の天和二年である)に通信使に随って日本に来ております。

本日は、駿州・由比にて名主・小池邸あかりの博物館を見学。「あかりの博物館」は私立の博物館ですが、充実していた。近代民俗史家・肝冷斎としては満足できる内容であった。みなさん「殺虫電球」知ってますか?
その後、静岡県立美術館へ。ここで「契丹」展をやっていた(九州国博からぐるりと回ってきたものとのこと)が、「美しき三人のプリンセス」という副題を見て、もうげんなり。滅多に見られないいいもの借りてきてるのに、そういうことは抜きで「プリンセスたち」でまとめてしまっているわけです。「美しき」の出典は「企画会社の想像」でしかないし、「プリンセス」そのものがどういう定義なのか。三人のうち一人は「皇太后」なのですが・・・。文化産業界で「大河ドラマシステム」といわれるやつですわ。歴史上のいくつかの「見るべきもの」をきわめて現代的な一定の(たいていは耳触りのよい)観点で結び付けて消費者に提示し、これに関連させてメディア・ミックスにより商品化する、という手法ですね。「戦国スーパーセレブ」だの「平安ホームドラマ」だの・・・「李朝ドラマ」もそんな感じ。

 

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