平成23年11月11日(金)  目次へ  前回に戻る

 

肝冷斎は血圧1○0が一週間続き、あたまがじわじわしてまっすぐ歩けない、という自覚症状を訴えておりましたが、先ほど、頭痛がひどくなってきたというので枕元においらを呼び寄せまして、

「・・・二世・肝冷斎を襲名せよ」

といいのこして・・・。今週の後半からは傍目にもおかしくなっているのがわかりましたが、職場の上司や同僚は気づかなかったんでちゅかねえ。

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「哀辞」という文学分野がありまちゅ。亡くなったひとを悼む文章なの。

その中の有名なのを紹介してみまちゅね。

衆万之生、誰非天耶。

衆万の生、だれか天にあらざらんや。

何万というひとびとの人生。どれ一つとっても天の与えたものと割り切るしかないものばかりではなかろうか。

賢者も愚か者も、すべて天によって生かされ、死んでいくのである。

その過酷な運命に憤ってもしかたがない。悲劇的な人生を憐れんでも何のためになろうか。

われわれは、

抑蒼茫無端、而暫寓其間耶。

そもそも、蒼茫端無し、しかしてしばらくその間に寓するならんや。

だいたい、天地には端っこというものが無いのに、その間にしばらくの間仮住まいしているだけではないか。

死者無知、吾為子慟而已矣。如有知也、子其自知之矣。

死者知る無ければ、吾は子のために慟するのみ。もし知る有らば、また子、それ自らこれを知らん。

死んでしまった者がこちら側のことを知覚しないものであれば、わしはおまえさんのために慟哭する、というわしの方の行動があるだけだ。あるいは死んでもこちらのことが知覚できるのなら、そちら側でおまえさんは、ひとりわしが哭いているこの気持ちに、気づいてくれるのじゃろう。

おお。

わしは感極まって、別れの辞を叫ぶぞよ。聴いてくれ、おまえさん。

濯濯其英、曄曄其光。如聞其声、如見其容。嗚呼遠矣、何日而忘。

濯々(たくたく)たるその英、曄曄(ようよう)たるその光。その声を聞くが如く、その容を見るが如し。ああ、遠いかな、何れの日にか忘れん。

てかてか光る花びらよ、ぴかぴか明るい輝き放つ。

おまえの声を聞いたようだ、おまえの顔を見たようだ。

ああ、遠いところへ行ってしまったなあ。いつまでもいつまでも忘れられないよ。

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韓退之が友人をあの世に送った際の「独孤申叔哀辞」(独孤申叔(どっこ・しんしゅく←人名)への哀しみのことば)。(清・惜抱軒・姚鼐「古文辞類纂」巻七十四より)

今日は、たくさんのひとを送りまちたねー。まずはTPP参加表明により「日本」が逝った。三重スリーアローズが解散した。ジャイアンツの代表もかな? 栗原も出ていくのかな? もちろん一世・肝冷斎も?

 

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