平成23年11月10日(木)  目次へ  前回に戻る

 

明日は2011年11月11日。いよいよざます。午前11時11分にたいへんなことが起こるとか起こらないとか・・・。おそろしいことざますよ。

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東晋の時代のことである。

阮修、字・宣子。彼は竹林七賢の一人である阮籍の甥に当たりますが、易の理に詳しく、老荘の無為思想に基づく哲学的議論をかわす「清言」の名手として評判でありました。俗人に会うことを喜ばず、また生活を営むことに無頓着で家には蓄えはなかったという。

友人の王処仲が鴻臚卿(外国使臣の接遇を取り仕切る高官)になったとき、阮修を次官である鴻臚丞に任命したいと思ったが、偏屈で清貧をよしとする人柄であるからなまなかなことでは引き受けてくれぬ。考えた挙句、このように問いかけた。

鴻臚丞差有禄。卿常無食、能作不。

鴻臚丞、やや禄あり。卿つねに食無し。よく作すやいなや。

「鴻臚丞という職は、少々給料が高い。おまえさんはいつも貧乏で食うものが無い。こんな官職はあまり向いていないのではないかなあ?」

阮修はしばらく考えこむ風であったが、おもむろに

為復可耳。

また可と為すのみ。

「それぐらいならできるのではないかな」

と。かくして、彼は鴻臚丞に任ぜられたのである。・・・・と、「世説新語」に対する劉孝標の注に書いてある。

というような人柄です。

このひとは、無神論者としても名高かった。(←現代シナでは一時期「先駆的唯物主義者」の一人として評価されていたんですよ。)

@   あるとき、阮修は、土地神を祀る廟である「社」の御神木(「樹」)を伐り倒して、材木に使おうとした。

あるひとが、

「御神木には神が宿っております。どのような祟りがあるかわかりませんぞ」

と諫言したところ、

社而為樹、伐樹則社亡。樹而為社、伐樹則社移矣。

社にして樹たりとせば、樹を伐ればすなわち社亡ぶ。樹にして社たりとせば、樹を伐ればすなわち社移るなり。

「この御神木そのものが土地神だとすれば、御神木を伐り倒せば土地神そのものも滅んでしまうから、祟りをなすことができようか。土地神が御神木に宿っているのだとすれば、御神木を伐れば土地神は別の木に移るだけではないか」

と反論して、ついに神木を伐り倒してしまった。

A   あるひとが「人が死ぬと幽霊になるのだ」と言うのを聞き、阮修は

「そんなことはない」

と言い放った。

「なぜそんなことが言えますか」

「幽霊を見た、というひとの言葉を聞いてみよ。幽霊はいつも

著生時衣服。若人死有鬼、衣服復有鬼邪。

生時の衣服を著(ちゃく)す。もし人死して鬼あらば、衣服もまた鬼あるか。

生きていたときの服を着て出てくるのだぞ。もし人が死ぬと幽霊になるのであれば、衣服も幽霊になるのか?」

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@   、Aともに、「世説新語」方正第五より。

―――いやあ、よくわかりましたね。なるほどなあ、そうか、人が死んでも幽霊になることは無いんだ。

ところが、明の王弱生というひとが、これを読んで、首をひねった。

曰く、

人夢中穿衣服、将謂衣服亦有夢耶。

人、夢中に衣服を穿る、まさに衣服また夢ありと謂わんや。

「みなさん、夢を見るとき、夢の中でいつもはだかでいますか? 

夢の中で衣服を着ているのなら、今度は「衣服もまた夢をみる」と言わなければならなくなりますよ」

と。(明・馮夢龍「古今譚概」(巻二十五)より)

―――いやあ、よくわかりましたね。なるほどなあ、そうか、夢の中で衣服を着ているんだから、死んで霊魂になって衣服を着ていてもおかしくないわけか。

やはり死んだら幽霊になるんだなあ。

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今日も眠い。あたまじわじわする。今週は毎日血圧1○0前後。毎日鼻血でる。やっぱり早番続くのは健康上ムリあり。明日の11時11分はもしかしたらわしの生が・・・。明日の午後にはもう「鬼」になっている?かも・・・。

 

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