平成23年8月31日(水)  目次へ  前回に戻る

 

明日いやだなあ・・・。

えー、気を取り直しまして、強いおとこのお話を一つ。

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唐の李日知(り・じっち)は侍中(官房長官に該たる)の職にあってしきりに

乞骸骨。

骸骨を乞う。

すべてを主君に捧げた後に残った自分の骸骨だけをいただきたい(すなわち、職を辞して帰郷したい)と陳情した。

何度も求められたので、ついに勅許され、辞職することができた。

ところがそのことを日知の妻は知らなかった。

日知が侍中に許された冠飾りなどを公に返すため箱詰めしているのを見て、妻驚いて曰く、

家室屡空、子弟名宦未立、何為辞職也。

家室しばしば空しく、子弟の名宦いまだ立たず、何すれぞ職を辞するや。

「我が家の蓄えはしばしば底をつくのでございますよ。子どもや一族の若い者はまだまだ大した官職に就いてませんわよ(あなたが引き上げないといけないのよ)。なのに、まさか、どうしてお辞めになったりしますの?」

そこで、日知はがつーんと言うたったんじゃ。

書生至此已過分。人情無厭、若恣其心、是無止足也。

書生ここに至ればすでに分を過ぐ。人情厭きること無く、もしその心をほしいままにすれば、これ足るに止まる無きなり。

「わしのような書生上がり、この地位にまで昇ればもう本来の分を過ぎてしまっているというべきじゃ。しかるにニンゲンの欲望には満足するということがない。欲望をほしいままにすれば、これで十分と思い知ってとどまるところも無くなってしまうのじゃ!」

妻、そのあともぎゃーすか言うたかどうかは知らぬが、日知は辞職してしまったのである。

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唐・劉粛「大唐新語」巻三より。

「旧唐書」巻188・孝友伝によれば、李日知は玄宗即位直後の先天元年(712)に侍中を辞し、刑部尚書(法務大臣)に転じて直後に官を辞して河南・栄陽に帰郷した後は、わずかに自宅の池・庭を修復したのみで、土地を増やしたり財産を殖やすなどの「産業」のことに務めず、人材の育成を事として、開元三年(715)に卒した。その治政は寛厚を以て評されたという。

よし。わしも見習って、今日こそがつんと言ってやります。わしがやったらみなさんも見習ってくださいね。

 

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