平成23年7月12日(火)  目次へ  前回に戻る

 

栃木県に「歌う海賊団ッ」という集団がいるらしい。ネットでは確かな事実であるし、NHKでも報道されていた。

―――という話を歴史家の負藕堂先生に申し上げたら、負藕堂は「むう」と唸って腕組みしていたが、やがて「ぽん」と手を叩き、

「おそらくそれは鬼怒川水賊の生き残りであろう」

と言うのである。

「鬼怒川水賊? はてそれは?」

と問うと、負藕堂、さてもさてもと頷き、

「鬼怒川水賊は歴史の表面から消えてより既に長い。その名を聞いたことがないというのも無理はないであろう・・・」

と解説してくれましたことには・・・。

鬼怒川水賊は、往古より鬼怒川〜利根川を中心に付近を劫略していた水上権力体であり、その創設はヤマトタケルの東征にさかのぼるとも、太平洋にあったミヨイ・タミアラ文明の残党であったともいうが、確かな歴史に登場するのは平安の半ば、平将門の乱のときに、その新朝に参じた豪族たちの中に「毛野の水をさ」の名が見えるのを嚆矢とする。

特に足利の末からは、利根川水系をほぼ支配し、東京湾にあって今も地図に載っていない海賊島の海賊とも連携して、里見、北条、徳川の諸権力を苦しめた。

その専横を危惧した幕府は、鬼怒川水賊を撲滅するため、ついに長谷川弾正太夫を起用した。弾正太夫は利根川の水路を替え、霞ヶ浦から鹿島灘に流れるように付け替えて海賊島の江戸前海賊との関係を断ち切るとともに、関八州水賊改めの与力同心八百人を総動員して、数次にわたり水賊狩りを決行。

このため、鬼怒川水賊は、一部が山中に逃れて日光山賊となったほか、ほぼ壊滅したのであった―――。

争戦百場空白骨、  百場に争戦するも空しく白骨、

乾坤万古此青山。  乾坤万古にこの青山あり。

行人無涙濺荒草、  行人涙して荒草に濺(そそ)ぐこと無かれ、

春鴃啼来花雨殷。  春鴃(しゅんげき)啼きて来たり、花は雨に殷(あか)し。

 百たびのいくさに戦い敗れて、おれたちは野辺にむなしく白い骨を晒す。

 けれど天地の続く限り、永久におれたちの故郷の山は残るのだ。

 旅行くひとよ、おれたちのことを悲しんで、荒野の草に涙をそそぐ必要はないぞ。

 おれたちのためには、春にはモズがやってくるし、花は雨の中で咲きにおってくれるのだからな。―――(梁川星巌「相馬懐古」「日本名勝詩選」所収)より)

このとき、霞ヶ浦海戦で生き残った真岡の弥五郎が、追手の目を逃れて小舟で単身鹿島灘に出、ポルトガルの海賊船に遭遇して船長(カピタイン)の友人として遇され、後にカリブの海に転戦して「ハッポン・ヤゴロ」と呼ばれる大海賊となった―――というのはまた別のお話。

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「本当か?」

と言いたくなってまいりますよね。そんなのうそに決まっている。教科書にもウィキにも地方史の研究書にもどこかの学界誌にも載っていないぞ・・・しかし本当かもしれませんよー。

 

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