平成23年4月28日(木)  目次へ  前回に戻る

さあ、勉強するよ。

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ひとを罵るに「忘八」(わんぱ、ぼうはち)というのは、

忘礼義廉恥孝弟忠信八字也。

礼・義・廉・恥・孝・弟・忠・信の八字を忘るるなり。

人として必ず持つべき「つつしむ心・正しい心・すなおな心・恥じ入る心・祖先を尊ぶ心・年長者を敬う心・まごころ・まことの心」――この八つの徳目を忘れてしまった者をいうのだ。

とわたしは長く信じておりました。が、

「ぷぷっ」

と大先生に笑われてしまった。

「それは

明人小説謂之。

明ひとの小説にこれを謂うなり。

明代のひとの書付けの中でそう書いてあるので、みんなそう信じているだけなんじゃよ。

古典に基づく言葉ではないのう。・・・あ、あまり気にしないでいいのじゃぞ、それも間違いではないし、キミら一般人にはその方がわかりやすいじゃろうしなあ。ぷ、ぷぷぷ」

と笑われると普通なら「む」として「おタク、何を根拠にそんなことを・・・」と訊ねてみたくなるのですが、なにしろ相手は清の大学者・雲ッ先生・趙翼である。

「そ、そうですか、いや、そうですなあ。一般人的にはそうですなあ、しかし、先生のような大知識人的にはどうなのですかなあ」

と相槌を打ちながら、上目使いで質問してみました。

すると、大先生は教えてくれた。

「「五代史」にいう、

王建少時無頼以屠牛盗驢販私塩為事。里人謂之賊王八。

王建、少時無頼にして屠牛・盗驢し私塩を販(ひさ)ぎて以て事と為す。里人これを「賊王八」と謂えり。

王建は五代期の前半に四川に建てられた蜀国(いわゆる「前蜀」)の高祖(在位901〜918)のことであるが、

王建は若いころ無頼の生活を送り、ウシを殺しロバを盗み、塩の専売破りを業としていた。郷里のひとたちは彼を「わるものの王八」と呼んでいた。

王建は王氏の同じ輩行(いとこ・はとこなど一定の祖先からの親等が同じである者)の八番目だったから「王八」(わんぱ)と呼ばれていたのだ。

この王建を罵る「賊王八」が「わんぱ」の本来の典拠なのじゃ」

「ほほう、なるほどなあ」

と頷きますと、先生、気分をよくしたのでしょう、さらに付け加えていう、

「また「金史」にいう、

王八与王毅共守東明。兵敗被執、王八前跪将降、毅以足踣之。

王八と王毅ともに東明を守る。兵敗れ執らわれ、王八は前跪してまさに降らんとし、毅は足を以てこれを踣(たお)す。

王八(わんぱ)という武将と王毅の二人が要害である東明の守備隊を率いていたが、モンゴル兵に敗れて捕らわれてしまった。このとき、王八の方は土下座して降伏しようとしたので、王毅の方は背後から彼を蹴り倒した。

王毅はこのあと臣節を尽くして殺され、王八は卑劣にも生き延びたが、敵方からも罵倒された。

これが「わんぱ」の第二の典拠である。」

「ははあ、なるほど」

此則不可与王建並称為賊。

これすなわち王建と並称すべからざるの賊と為す。

「まあ、こっちの方は王建ほどの男と並べて議論できるような悪漢でも無いがなあ」

「なあるほど、こいつはそのとおりですなあ」

「わっはっはっは」

「ひっひっひっひ」

とわしらは気分よくなりまして大笑いした。

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趙雲ッ餘叢考」巻三十八より。「陔餘叢考」(がいよそうこう)は歴史考証の超絶的名著として、紹介の要も無いぐらいであろう。ああ!ありがたいありがたい。今度また人として生まれたら雲ッ先生のような知識人になりたいものである、というぐらいありがたい。とにかく勉強になった。賢くなりました。ところがこんなに賢くなっても明日もまた日々の糧のために会社に行かねばならぬである。ぐすん。

 

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