平成23年1月10日(月)  目次へ  前回に戻る

寒いのです。あんまり寒いので後頭部がクラクラし、ふ、―――と気を失って、幻覚を見た。

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あるひとが、一本の材木を贈ってくれた。

「さて、これを何に使おうか」

と悩んでいると、童子が曰く、

「これは梁(はり。横にわたす大材)に使えそうではありませんでちょうか」

「待て待て」

わしは言うた、

木小、不堪也。

木小にして堪えざるなり。

「梁に使うには短すぎるように思うぞ」

童子曰く、

「それでは棟(むなぎ。縦に立てる柱)に使いまちょうか」

わしは言うた。

木大、不宜也。

木大にしてよろしかざるなり。

「棟木に使うには長すぎて不適当ではないかな」

ぶ。

ぶははー。

童子は笑うた。

「先生、

木一也、忽病其大、又病其小。

木一なり、たちまちその大に病(なや)み、またその小に病む。

同じ木材なのに、長すぎると悩んだり、短すぎると悩んだり、たいへんでちゅねえ」

おお!

わしは感動しました。

「発見じゃ! 真理を発見したぞ!

小子聴之。

小子、これを聴け。

おまえ、わしの話しをようく聴くのだぞ」

わしは呆気にとられている童子に向かって言うたのじゃ。

物各有宜用也。言各有攸当也。豈惟木哉。

物にはおのおの用いるべきあり。言にはおのおの当たる攸(ところ)あり。あにただに木のみならんや。

「「モノ」には、それぞれに用いられるべき場合があるのだ。「ことば」にもそれぞれに当てはまる場合があるのだ。(用いられるべき場合・当てはまる場合を探さねばならないのは、)木材だけのことではないのだということじゃ」

童子は「はあ・・・、ちょれは、ちょれはねえ」と言うた。

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別の日、朝からやたら寒い日であった。朝起きてみると、童子が、

為余生炭満炉烘人。

余のために生炭炉に満ち、人を烘(あぶ)る。

寒がりのわしのために木炭をいろり一杯に入れて、人を焦がすぐらいに燃やしていた。

わしは言うた、

太多矣。

太(はなは)だ多きかな。

「これは多すぎるぞ」

「あいあい、そうでちゅかそうでちゅか」

童子は取り去って水をかけて消してしまい、

留星星三二点、欲明欲滅。

留むるもの星星三二点、明らかならんとし、滅せんとす。

わずかに二つ三つの炭に火が残って、それも燃えるかと思えば消えてしまいそうである。

わしは言うた。

太少矣。

太(はなは)だ少なきかな。

「これは少なすぎるぞ」

ぶ。

ぶぶぶー。

童子はむすーとして曰く、

火一也。既嫌其多、又嫌其少。

火一なり。既にその多きを嫌い、またその少なきを嫌う。

「同じ炭火なのに、多すぎると文句を言ったり、少ないと文句を言ったり、なんでちゅか、あんたは」

おお!

わしは感動しました。

「発見じゃ! 真理を発見したぞ!

小子聴之。

小子、これを聴け。

おまえ、わしの話しをようく聴くのだぞ」

わしは呆気にとられている童子に向かって言うたのじゃ。

情各有所適也。事各有所量也。豈惟火哉。

情にはおのおの適するところあり。事にはおのおの量(はか)るところあり。あにただに火のみならんや。

「「キモチ」には、それぞれに適切な場合があるのだ。「できごと」にもそれぞれに適当な回答があるのだ。(適切な場合・適当な場合を探さねばならないのは、)炭火だけのことではないのだということじゃ」

童子は「あいあい、そうでちゅ、そうでちゅねえ」と言うた。

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明の新吾(心吾、とも)先生・呂坤の名高い著作である「呻吟語」巻六より。6年ぶりぐらいですね。

「気の利いた本を引いてきたな」

とお偉方はお喜びかもね。お偉方は陽明学とかスキだからね。でもお偉方は読まんけどね、こんなHP。「呻吟語」は二十数年前に苦しんで読んだ。当時は「もっと年を重ねてまた読まねば・・・」と思ったものだが、今読んでみると当時以上にオモシロくないし、どうも「そうではないと思うぞ」と言いたくなってくるところも多いように思われます。やはり萬暦の書(萬暦二十一年(1593)ごろという)なので、盛世の驕りのようなモノも感じてしまいますね。ゲンダイにおいて「バブル期」の本を読んでいるような感じ。

なお、この「童子」は実際は「家僮」と書いてあるので、使用人である。「小子」と呼びかけられているのは「弟子たち」でこちらは読書人たちだから、別のモノなのであり、その間には厳格な身分差がある。しかしどうせ幻覚だから、どうでもいいや、ということで、「弟子たる童子」と解してみた。メルヘンチック。あるいはナイーヴな東洋幻想。だなあ。

・・・・という幻覚を見ている間に、現実のわたしは、山梨県立博物館、八田家書院、経塚古墳を見てきたようである。パンフとかスケッチがポケットに入っていた。どうせなら平日ジゴクの明日からこそ、幻覚のうちに過ぎてしまえばよかったのに。

 

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