平成23年1月6日(木)  目次へ  前回に戻る

PCさまが言うことを聞いてくださるうちに書きますぞ。

昨日は久しぶりで洪容斎先生「夷堅志」を引用しましたので、今日はこれにインスパイアーされたとされる金の大詩人、遺山・元好問「続夷堅志」をはじめて紹介してみます。

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裴択之は山西・陽武のひとであるが、その六七歳のころ、じいさま(「大父」)に抱かれて馬に乗せられ、郡の東北にある村を訪れた。

村の入り口になっている濠の上の橋をわたったところで、突然、

見門南北有市集。人物皆二尺許、男女老幼、吏卒僧道、穣穣往来、市人買売負担、驢駄車載、無所不有。

門の南北に市集あるを見る。人物みな二尺ばかり、男女老幼、吏卒僧道、穣穣として往来し、市人の買売、負担、驢駄車載、あらざるところ無し。

村の門の南北に、市場が開かれてひとびとが集まっているのを見たのだ。ひとびとはみな二尺ほどの背丈、男もあり女もあり老人も幼児もあり、役人らしきもの、見回りの兵士らしきもの、僧侶、道士、活気に溢れて行き来している。市場のひとはモノを売り買いし、貨物を背負い、担ぎ、あるいは驢馬の背中にくくりつけたり、車に載せたり・・・。そこには、本当の市場にある情景はすべてあった。

呆然と見ているうちに、じいさまの馬は門を通り過ぎ、村の中に入った。

村の中に入ると、もうあの市場は、どこにも見えない。

「じいさま、あれはなんじゃろかなあ?」

と見たものをじいさまに告げたが、

大父以為妄、不之信也。

大父以て妄と為し、これを信ぜず。

じいさまはでたらめだと思ったか、信じてくれなかった。

しかしながら、択之はその後も

三四至其処、亦皆見之。

三四もその処に至るに、またみなこれを見る。

三度か四度、じいさまとともにこの場所を通ったとき、いつもこの市場を見たのである。

「あれは何だったんでしょうね」

やがて、元の南征のことがあり、彼の一族も郷里から離れたから、この村がその後どうなってしまったかは知らないという。

―――なんであろうか。

わたし(←肝冷斎にあらず、元遺山である)にもよくわからないのだが、最近、南宋の書物に福建・武平(福建の南の端、もう広州との境である)の周鼎というひとの幼時のことが書いてあったのを見つけた。

・・・周鼎はある日、父と一緒に驢馬に乗って村の道をたどっていたとき、突然、

県人市集。

県人、市集す。

村びとが市場に集まっているのに出くわした。

周鼎は市場が珍しかったので、驢馬の上で左右を見回し、それから父の顔を見上げたのだが、父は市場を通っているのに気づいていないふうであった。

そのうちに、

地色微、弁見道傍両列皆仏像。

地色微かとなり、道傍の両列を弁うるにみな仏像なるを見る。

地面の色あいがぼんやりしはじめ、道の両側をよくよく見つめると、(市場だと思っていたのは)すべて仏像が並んでいるのだというのがわかってきた。

鼎は急に怖ろしくなり、

閉目不敢視。

目を閉ざしてあえて視ず。

目を閉ざして、見ようとしなかった。

しばらくして

開目又不見。

目を開くもまた見えず。

目を開けてみたところ、もう見えなくなっていた。

その間、父はずっと何食わぬ顔で驢馬を歩ませていたという。

―――このことと択之の経験とは、同じことのようにも思えるが、仏像の意味がよくわからない。しばらくここに記して後のひとが説明してくれるのを待ちたいと思う。

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しかし八百年ぐらい経過しましたが、誰も説明できないのであります。一般に「鬼市」とか「山市」といわれる「幽霊都市」現象にみえますが、正体が「こびとちゃん」「仏像ちゃん」だからまるっきり違う事案なのかも知れませんし。

「続夷堅志」巻二より。元遺山(1190〜1257)は太原・秀容(今の山西省内)のひと、金から元の時代まで生きていましたが、金の亡国(1234)の後、その遺臣を任じて元に仕えなかったから、御遺志を尊重して、「元」のひとではなく、「五代・宋」の時代のひと、と整理しておきます。

 

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