平成22年8月15日(日)  目次へ  前回に戻る

鹿脚女のお話。承前。

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河下には烏耆延(ウギエン)という、これも古い古い国がありましてな。川上の王国とは長い間仇敵同士であった。

その日、烏耆延の王さまが年に一度の川祭りのために川べりに来ておりました。

と、川上の方からどんぶらこっこ、どんぶらこっこと大きなハスの花が流れてきました。

川岸に手繰り寄せてみますと、そのハスの花には千人の子どもが載っていたのでございます。

「なんと、かわいらしい子どもたちではないか」

王さまは子どもたちを宮殿に連れ帰り、自らの子どものように大切に育てた。やがてこの千人の子どもたちは、

成立、有大力焉。

成立するに、大力あり。

成長して立派な若者となったが、みなたいへんな力持ちであった。

王さまはこの子どもたちを頼りにして、

拓境四方、兵威乗勝、将次此国。

四方を拓境し、兵威勝ちに乗じて、まさにこの国を次にす。

四方に国境を広げた。その軍事力を背景にして、次は川上の国に攻め込むこととした。

川上の国の王さま(千子の実父)は烏耆延国が攻め込んでくると聞いて震え上がった。千人の立派な若者を中心としたその軍事力に敵うはずがないのである。

烏耆延の軍は国境線を越え、ついに王城を取り囲んだ。

「ああ、我が国にはあの千人の勇士たちのような軍士はいないものか」

王さまが絶望しているところへ、王宮から追われていた鹿脚女がやってきまして、

今上下離心。賎妾愚忠、能敗強敵。

いま、上下離心す。賎妾は愚忠、よく強敵を敗らん。

いま、王さまの政府では上下の心が離れ、ばらばらになっております。しかし、わらわは愚かな忠義者、王さまのためにかの強敵を破ってみせましょう。

王さまはその言葉を信じなかったが、鹿脚女はずかずかと王城で一番高い楼閣に昇り、城を取り囲んでいる千人の勇士たちに向かって、

莫為逆事。我是汝母、汝是我子。

逆事を為すなかれ。我はこれ汝の母、汝はこれ我が子なり。

おまえたち、悪逆の行為をしてはならぬぞえ。わらわはおまえたちの母であり、おまえたちはわらわの子なのじゃからな。

と呼ばわったのである。

千人の勇士たちは言うた、

何言之謬。

何ぞ言の謬なる。

(このくそばばあめ、おまえの)その言葉は大間違いじゃ。

ばばあ(鹿脚女)はそこで胸をはだけ、

手按両乳。

手にて両乳を按ず。

両方の乳房を手でもみもみした。

すると乳房からおそろしい量の白い乳汁がほとばしり出た。ほとばしり出た乳汁は、

流注千岐、咸入其口。

流れ注ぎて千に岐(わか)れ、みなその口に入る。

千に分かれて城の四方に流れ注ぎ、勇士たちの口の中に入ったのだった。

そこで、勇士たちは

「これこそ我が母であった」

と涙を流し、

于是解甲帰宗、釈兵返族、両国交歓、百姓安楽。

ここにおいて甲を解きて宗に帰し、兵を釈きて族に返り、両国交歓して百姓安楽す。

ついによろいかぶとを脱いで(実の)父母に帰順し、軍を本国に返した。これより、両国は友好を結んで交流しあい、人民たちは安らかに暮らしたのであった。

・・・・・・それははるかむかしむかしのこと。

今(唐代)を去る千年ほど前、すでに荒廃して石の塔の残骸を遺すのみとなっていた王城のあとにたたずんで、尊きひと・釈迦如来は弟子たちにおっしゃった。

昔吾于此帰宗見親。

むかし、われここにおいて宗に帰し親を見たり。

―――むかしむかし、(はるか前世の)わしはここでまことの出自を知り、父母に出会ったのであったなあ。

サーリプトラが問うた。

―――如来はかの千人の勇士の一人であられたのですか。

如来はわずかに頷かれ、静かにおっしゃった。

欲知千子。即賢劫千仏是也。

千子を知らんと欲するか。即ち賢劫の千仏これなり。

―――おまえたちは、かの千人の勇士のことを知りたいのか。かの千人(うち一人は釈迦如来)こそ、この現在の宇宙ができてからの「時代」に出現した千人の如来なのである。

それは如来の不可思議の力によるのか、荒れ果てた王城の向こうに、時空を超えてかすかに千の如来たちの放つ黄金の光が射した―――。それはあまりにも短い一瞬の幻覚。弟子たちは王城の上に舞う砂塵を見間違っただけだったのかも知れぬ。

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ああ、ありがたや、ありがたや。

「大唐西域記」巻七より。いつも言いますが、この本はマジメな報告書ですから、唐の大臣たちは

「なるほど、両方の乳房を手でもみもみ、のう」

「すると乳が千に分かれて口に入る・・・と」

「さすがは天竺、強敵よなあ」

とぶつぶつ言いながら報告書を読んでいたわけです。

 

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